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彷徨する自由帖

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そのライ麦畑にて、私も存在を惜しまれたかった(と嘘をついてみるのだった)|サリンジャーの小説

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 ここでも外でも、再三言っている。私にはやはり、誰かの幸福を「祈る」というのが、世間で評されているほど美しいものだとはあまり思えないと。

 ただ幸せを願うだけで、実際に何もしないのはとても簡単だし、それゆえに楽だ。言葉だけ、口だけで形式は意外と成り立つ。しかも厄介なことに、願いや祈り……それらの言葉自体は非常に、ときどき怖いくらいに美しいから、発話者が抱く無自覚の欺瞞を隠すための優秀な蓑になってしまう。

 逃げではない「本物の祈り」は、血眼になって探しても、なかなか見つからないくらい珍しい。もちろん祈りのみに限った話ではない。

 例のホールデン・コールフィールドも、おそらく、そう感じた瞬間が相当に多くあったのではないだろうか。

 

きっと「幸運を祈るよ!」ってどなったんじゃないかと思うんだが、そうあってほしくないんだな、僕は。絶対にそうであってほしくない。
「幸運を祈るよ!」なんて、僕なら誰にだって言うもんか。ひどい言葉じゃないか、考えてみれば。

 

(白泉Uブックス「ライ麦畑でつかまえて」(2013) J・D・サリンジャー 訳:野崎孝 p.28)

 

 彼は、心にもない言葉を無責任に発することの欺瞞、作中でいうところの「インチキ」を、ひどく嫌悪しているようだった。

 それは「幸運を祈る」に限らない。別れ際の「お目にかかれてうれしかった」も、提案に対する「ステキ」も、およそ本心からかけ離れている場合において、会話のなかで使われるのを厭っている。

 知りたいのは表面の話ではなく内実、本当のところは果たしてどうなのだ、と全世界に対して詰問するように、ホールデンは目を開いている。一人で街を歩きながら。

 

「自分がインチキでないとどうしてわかる?
 そこが困るんだけど、おそらくわからないぜ」

 

(白泉Uブックス「ライ麦畑でつかまえて」(2013) J・D・サリンジャー 訳:野崎孝 p.268)

 

 そんな彼が妹のフィービーに向かって口にした幻想が、他ならぬ「ライ麦畑のつかまえ役」になること。

 夜の部屋で言葉によって語られた、その、糸で織られた一幅の絵か、短い映像を思わせる風景は、私の心の中に一定の面積を占めて収まった。だから時折、ひとりでそこに行ってみて、短くはない時間を過ごしている。寝る前とか、旅行先で、どこか遠くの方を見ているときとかに……。

 実際には、ライ麦畑で捕手をつとめているのはホールデン本人だろう。けれどその幻想は私の中で少しずつ変容して、今では男の子なのだか、女の子なのだかもよくわからない一人の人物が、この世のものとは思えない変わった構造の衣を着てそこにいる。年端も行かぬ子供に見えるが、そうではないのかもしれない。

 ライ麦、という日本ではあまり身近でない穀物の畑の、黄金と表現するにはいささか灰色のかった大海で、その人物は何千という数の子供たちを見守る番をしている。遊びながら勢いよく駆けだして行った先で、彼らがうっかり崖の下に落ちてしまわないように。

 

僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。
そんなときに僕は、どっかから、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。

 

(白泉Uブックス「ライ麦畑でつかまえて」(2013) J・D・サリンジャー 訳:野崎孝 p.269)

 

 ……私の胸中に収まっているライ麦畑といえば、平原から相当遠く、高さのある岬の上、ずいぶんと空に近い場所にある。

 突き出た地形の両側が崖になっていて、子供たちはしきりに足を踏み外しそうになり、そのたび例の不思議な人物に肩をつかまえられている。一方、反対側の崖に腰を下ろして緩慢に足をぶらぶらさせている私は、短い間に何度も背後を振り返って、その美しい光景を眺めるのだった。もちろん、心底彼らを羨みながら。

 あんな風に気にかけられ、存在を惜しまれることで、どれほどに満たされるだろうかと考える。ひょっとしたら初めて、生まれてきて良かったと思えるかもしれない。崖から落ちそうになっている自分を心配してくれる誰かがいる、甘美な場所だ、多分、そういう世界にこそ居たかった。

 

 このライ麦畑では、私が子供たちと同じように扱われることは、永劫ないらしい。

 どうやら人間を「子供」と「大人」のふたつに分けてみたとき、私は前者のくくりには所属できないらしかった。その基準は一体、何なのだろう。それこそ年齢なんていうものを持ち出すのは「インチキ」であり、反則だと思う。本質を説明する、一切の助けにならない要素だもの。

 何がどうであれば子供で、そこから何がどうなったら大人に変わるのか、説明なんてできない。こじつけ以外に納得できる理屈を、誰かから聞いたためしも、自分で見つけられたためしもなかった。

 

 説明はできないけれど、確かにひとつ、はっきり分かっている事柄はある。

 それは「仮にこの崖から落ちても、死んだりはしない」のだと、私は経験から知っている……という事実。

 なぜなのか。かつて一度、勢い余って足を踏み外し、地面まで落ちたことがあるからだ。相当な痛みと苦しみを味わったけれど、別に死なない、それでこうして上まで戻ってきて、今度は足をぶらぶらさせている。そうして神話のような風景を気まぐれに眺めているわけ。落ちたって死なないのに、あんな風に必死でつかまえてもらえて、いいな。そう思っている。

 私がライ麦畑の崖から落ちたときも、あの不思議な人物がそのへんにいて、すんでのところでつかまえてくれればよかったのに。そうしたら、存在を惜しまれている実感を持って、一個の価値あるものとして、不安を減らして歩いていられたかもしれないのに。

 

 でも、と、もう一度思う。私は知っている。

 相当な高さに見える、この崖から落ちても、別に死なない。死なずになんとかやっていけるのだと、すでに知ってしまっている。だから今更惜しまれたところで、日頃抱いている「どうにも空虚な感じ」というのが、いっそう深まるだけに違いない。なんというむなしさ。一握のかなしさ。

 無意味なことだ。経緯はともあれ孤独な人生と、そうして齢を重ねる意味のなさ。

 崖で足をぶらぶらさせながら、平気な顔をして、明日もまた新しい本を読むだろう。無論それは、私が大人だからそうするのだった。