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彷徨する自由帖

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家に籠り、放浪を渇望する睦月

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 流行り病が怖くて、仕事以外の日はすっかり家に籠っている。もう一月も終わる。

 呼吸器系が昔から弱いので「肺炎」の言葉を耳に入れるだけでも恐ろしい。

 旅行や散策をしようと思うものの、どうしても大型の駅や空港を経由することになるため、その辺でうっかりウイルスに憑かれてしまう可能性を考えると玄関から足が遠のく。まだ症状が顕在化せず、きちんと診断を下されないまま道を歩いている感染者も、もしかしたらいるかもしれないし。

 そうして今日も(シフト制の会社勤務なので平日休みは普通にある)睡眠に溺れ、書物に頭を突っ込み、育てている植物を眺めては調べ物をしたり再び寝たりしている。――怠惰?  いつも真面目に働いているのだから、これくらい許されて然るべきだ。

 まあ、外出する気分になれないのは、決して新型コロナウイルスの蔓延だけが原因ではない。

静穏な家籠り

 そもそもの性質が出不精。できるだけ外に出なくても良い状態や生活が自分の理想だ。家の中かその周囲に必要なものが全て揃った上で、完全な趣味のためだけに出掛けられる環境なら、もう申し分ないと言える。仕事や手続き等の必要に迫られてではなく、あくまでも気まぐれで外出という行為をしたい。

 重要なのは、自分の意思でそれを選べるかどうか。

 外に出ると否応なしに受け取る情報が増える。大量の音、光、触覚、見知らぬ他人の動向・感情……。HSPというべきか少々感覚過敏で無駄に神経質な私は、五感から許容量を超えて何かを注がれると、すぐ激しい頭痛と倦怠感に襲われる。それでも楽しみにしていた行事なら耐えられるが、義務としてどこかへ足を運ぶ際は苦痛でしかない。できることなら避けたいと切に思う。

 おまけに気分循環症を患っているので、鬱々と塞ぎ込んでいる時期は身体すら簡単には動かせない。難儀なもの。ただ、ひたすらに面倒くさい。

 そこで家籠りだ。なかでも自分の部屋は素晴らしい。私にとって快適な、慣れ親しんだルールに則って全てを動かせるから。たとえ誰かの目から見て無秩序であっても関係ない、独立した世界。衆人の監視から逃れて過ごせる楽園。

 好きな曲を流す。止めたければ止める。寝転がって本を紐解く。好きな時に棚に戻す。この空間に他人はおらず、ゆえに体裁を取り繕う必要もない。ただ私だけが望むように振る舞えばいい。

 部屋に籠っている時は、自分が受け取る情報の量を適切に調節できる。視界に入れたくないものは単純に消せる。要らないものは捨てられる。不用意に接触してくる人間はここにいないから、自衛のために気を張る必要もない。怖いものの不在。壁の中で、厳選した存在に囲まれて、扉と窓に守られている状態ほど心地の良いものはない。

 また、最近は「自分の機嫌を自分でとる」という言葉が随分ともてはやされているようだが、私は外界で不快な出来事に遭遇するたび「私の機嫌をとらないこの世界の側がおかしい」と常々思っている。思い通りにならないことが何よりも嫌いだから。

 おとなしく家籠りをしている限りは、そんな憤りや怒りを感じなくても済むから重畳だ。

 それなのに、私は時間とお金が許せば国内外問わず旅行をするし、次はどんな場所を散歩しに行こうかと頻繁に考えている(当ブログの記事をざっと眺めてもらえば分かると思う)。自分のことなのに全く意味が分からない。なぜ、この心はわざわざ外に出て行きたがるのだろうか。

 

放浪を志向する心

 神経過敏かつ自己中心的な私が、冒険に向いていないのは明確だ。

 なのに旅行や散歩をする。それも、半ば「行かなければならない」という謎の強迫観念に駆られて。外の世界は恐ろしく、私にとって適切ではない物事や人、状態や現象の巣窟なのにもかかわらず。

 長らく不可解だったが、最近はその理由がなんとなく分かってきたように思う。

 単純に、安穏とした環境に身を置き続けると飽きてしまうのだ。足を動かさないこと、他人と話さないこと、この目に未知のものが直接映らないことに、飽きる。あれほど望んでいた静けさに包まれているのにうんざりしてくる。焦りもする。こうなるともう最悪で、なんとか心を蝕む閉塞感を晴らさなければならない。少しでも生き永らえるために。

 だから定期的に人間と接触する。または、どこでも良いので目的地を設定し、とりあえず向かう。あてどなく。何か、興味深いものに出会えると信じて。

 外出は骨が折れる。まず、に起きるのが得意ではない(これで会社に勤めていなかったら毎日昼夜逆転している)。利用する交通機関は運行が乱れたり止まったりするが、そのたびに発狂しそうになる。定められた時間通りに物事が動かない状況は何よりのストレスだからだ。

 人の多い場所を通れば憔悴する。混雑時は特に他人の苛立ちや焦燥の感情が伝わってきてつらい。まれに呼び止められて道を訊かれたり、写真を撮ってくれと頼まれたりするのも吐き気がする。私は今どこかへ向かうという任務を遂行している最中なので、邪魔をしないでほしい。余裕がないから構わないでくれ。

 ああ、家でじっとしていさえすればこんな思いをしなくても済むのに。帰りたい、速やかに帰りたいと口の中で呟く。

 それでも辿り着いた先で、紙面や画面越しではない景色を視界に収めた時、私は一瞬だけ満たされる。物語を通してしか見たことがなかったもの、あるいはその存在すら知らなかったものが、この世界に本当に存在していて、自身の目でそれを確かめたという事実が愉悦に代わる。

 やがて帰路につく頃、歓喜の火は跡形もなく潰えてしまう。だからまた、行かなくてはならない。

 要するに高い中毒性のある薬みたいなものなのだ。私にとっての外出とは。安心安全な暮らしの中で心が侵され疲弊するたびに、自分を励まし、鼓舞して、あの満足感を再び得たくはないかと自身に問いかける。

 そんな家籠りと放浪の繰り返しで、奇跡的に正気を保っている。

こんなにも生きづらくて大丈夫か?

 書いていて自分のことが心配になってきた。どう考えてもまともではないと思う。

 こんなにも向いていないのに、なぜ人間として生まれてきてしまったのか……いっそ別の生物、もしくは無機物として存在していた方が幸せだったのではないか。言っても仕方がないが、ぼやかずにはいられない。

 感覚の過敏さや精神状態の推移は役に立つ場合もあるが、それ以上にこの身を社会から遠ざけるし、時にははじかれてしまう。しかし人間として、動物として最低限の健全さは保っておきたいから、少なからず無理をする。

 その結果、不調をきたしても誰も助けてはくれない。当たり前だ。こちらの苦悩は、あくまでもこちら側の問題なのだから。背負わないといけない。世界と繋がりたいと願うなら。つらいのだ、苦労しているのだと一方的に主張しても、押し付けても、相手の側は変えられない。

 でも――この先何があっても、私だけは、私の味方でいるつもりだ。自分を応援してやる。ことあるごとに助力し、奮い立たせて手を引く。また、この足で立ってどこかを放浪するために。

 いつか自分自身だけではなく、同じように悩む誰かにそっと手を差し伸べられるだけの力がついたら、今よりも胸を張って歩けるようになるだろうか。

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はてなブログ 今週のお題「応援」