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彷徨する自由帖

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虚無と焦燥の住まう部屋で

 

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夏の空

 一日外に出たら三日は家に籠りたい。

 常日頃からその位のペースで生活をしたいと思っているが、殊に夏はその思いが一層強くなる。気温と湿度が、働くのと遊ぶのに必要な、精神力と体力の双方を容赦なく私から奪っていくからだ。ただでさえ疲れやすい性質であるのに、こんな風に追い打ちをかけられては正直たまらない。

 放っておけば自然と引きこもりがちになる自分は、一人だけで静穏にいられる、鍵のかかる空間が基本的に好きだった。そこでぼんやりと考え事をするのが、至上の安らぎだと感じられた。

 何も予定がない日、冷房の効いた部屋で寝転ぶ。次に家のドアを開けて踏み出す時のための充電をする。出かけた先で目一杯動き回るには意識してそうする必要がある。なのに、心の奥底ではいつも焦燥感がくすぶっているから、休みの日にだって一度も存分に休めたことはない。ベランダの草花に水をやり、窓を閉めて外を眺めれば周囲の音が遮断されて、自分が今ここで無為な「停滞」をしているのだという事実を突き付けられたような気がした。

 家にいてもできることを、しなければならない。と思う。

 一体、何に急き立てられているのだろうか? そう問えば、答えは存外簡単に返ってくる。この身を苛むのは、絶え間なく感じている強い虚無だ。人間と、その生と営みに対する虚しさを囁く風穴が、いつも目の前にある。どんなに楽しいひと時を過ごしていても拭い去られることはない、生のむなしさ。

 夜眠り、朝起きて、何かを食べ、人と会い、また夜は眠る。――その繰り返しのどこかの地点で死ぬ。突き詰めてしまえば適度に食欲・性欲・睡眠欲を満たすことだけが、人間にとって必要な行為なのだ。太古の昔から今に至るまでで形式は異なれど、それを繰り返して個体の数を増やしたり減らしたりしながら、存続しているだけ。他の要素を一介の生物に対して求めるなど、根本的に間違っているのかもしれない。

 それでも、どうしてもそれに満足することができないから、何かを作ることや言葉を紡ぐこと、世界に散らばる物語の断片を集めることをやめられなかった。

 まるで料理の過程で発生する灰汁のような、人間が生物として必要とするもの以外の要素・価値を、私は確かに必要としていた。だから、それを実現するための行為から離れて、ゆっくりと休息をとることが難しい。ただ生きているだけならそれで十分なはずなのに、何らかの創作に携わっていない瞬間は、どの方角にも進むことができない焦燥と虚無を感じた。心臓だけが動いていたって、意味がないのだ。

 私は今日、そこに人間として存在すること以外に、どんな価値を生み出せただろうか。もし何もないのなら、何かが生まれるまで、手を動かし続けるべきではないのだろうか――。

 自身を絶え間なく稼働させ、静かに熱中させられるものがないと、底の知れない虚無に向かって恐ろしい速さで落ちていく。だから生きることの空虚さに心身をとり殺されないよう、毎日必死で心に燃料をくべているのだ。その灯が絶対に潰えないように。傍から見た者の視界には、何かに盲目になって打ち込むことで、他の不都合な恐ろしいことを考えないようにしている風体に映るかもしれない。それはあながち間違ってはいない。

 とはいえ、私は生きることの虚しさに絶望しているわけではない。むしろ本当に望んでいるのは、それすらも包み込み肯定できるだけの何かを、生の中に見出すこと。創作を通して。人間という生物の営み、その大きな輪を回す歯車として存在しながら、視点だけはほんの少し高い場所に据えておきたいと密やかに願った。

 夏の休日、涼しい部屋の布団の上で、日頃の活動の疲れを癒しながら縦に延びる自分のことを観察する。妙にやる気が出なかったり、具合が悪かったりするときの焦燥。仕事以外の貴重な時間を使って動きたいのになかなかできず、それが長く続くと、何の価値も創造できていない状況と存在そのものへの虚無感がどんどん募っていく。それが無視できない程度に大きくなった頃、やっと身を起こして机に向かうことができるのだ。

 それは身のうちに巣食う感覚に支配されないために、それを包括し凌駕してしまうほどの何かを必死で探しに行く行為。いつかは灰になるこの身体を使って。

 生きることの虚しさこそが、私を心躍る物語の方へと、休みなく駆り立てている。

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はてなブログ 今週のお題「夏休み」