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彷徨する自由帖

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旅は「いつか静かにまどろむ時のため」だと認識した瞬間

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 たった1度でも構わない。

 しっかり目に焼き付けて胸にしまい込んだ風景は、その先、いつになっても好きな折に取り出して、鮮やかに眼前に展開できるようになる。映写機や、幻灯機みたいに。だから実際に存在していたものの鏡像が、想像ではなく確かな「現実」になったものとして、それらは私の所有になるのだった。

 本来は何人にも所有できるはずのないものを、得て、満足する。もう決して奪われず、失われないものが残り続ける。

 すると、安心して世界を閉じられるのだ。瞼を閉じるみたいにして。心をずっと開いたままにしておくことはできない。外にあるものを知るのと同じくらい、己の内側で黙々と思考を編むことが、大切だから。

 

 もしかしたら、それが旅行する動機なのかもしれない。

 と、気が付いた瞬間から明らかに、普段の遠出とそれに伴う意識には変化があった。確かに外に出ているけれど、外に出るために旅をするのではないと。

 変わったのは私自身と、私の意識と、私の視点。それゆえ結果的に「自分の人生に変化がもたらされた」ということはできるが、あまり好きな表現ではなく、また正確でもないと思う。人生、というものを主体から切り離して、全く別のものとして扱っているように聞こえるではないか……?

 あくまでも、変わったのは私だ。私自身の動き方。当然の帰結として、人生も変わった。大きく変わった瞬間があり、今もなお、刻々と変化し続けている。そう言ってみる方が正確だと感じられる。

 

 では、以前はどうだったのか。

 昔は旅行というと、単純に、行ってみたい場所に行って現地を楽しむだけだった。

 いつしかそこに、もっと複雑な心理が働いていると気が付いたのは、わりと最近のこと。その心理の話をしよう。

 

 少しでも「どこかへ行きたい」と考えてしまうと、実際に足を運んでみるまで、自分の魂はその場所に囚われ続ける。……伝わりにくいかもしれないが。対象には本当に存在する場所も、しない場所も、どちらなのだか判然としない場所もある。

 何にせよ「行ってみたい」と思ってしまった時点で意識はその空間に捕まってしまうので、完全に逃れるのは不可能だった。

 そして囚われた状態から抜け出そうと足掻いているとき、最も自由だと感じられる。自由の概念は幻想にすぎなくても。抜け出すというのは、そこに実際に行ってみること。そうして、想像と現実の差異を埋めたり埋めなかったりしながら、飛んでしまった魂の欠片を探すのだ。

 

 地図に載っていて、地球儀にも名が記され、一般に「ある」と認識されているからといって、それが本当に世界に存在している証左にはならないと幼い頃から感じていた。空に浮かぶ星みたいなものだ。星の光が地上に届くまでの距離が遠いほど、自分の目で捉えられるのは過去の像であり、実際にはもうそこに無いかもしれないのと同じ。

 まだ行ったことがない、自分で足を運んだことのない場所は、存在が怪しい。地図上の真っ黒な部分。文字通り、未踏の。たとえニュースを通してどれほど名前を耳にしていても、自分が足を踏み入れたことがないのなら、そこは「ある」と断言できない幻想の土地。

 だからこそ確かめてみたくなる。記され、描かれている事柄が、本当に存在するのかどうか。これが、旅行をする第1の動機のようだった。

 

 それから上に加えて、私は現地での体験を記録し、ずっとあとになってからでも「回想」によって積極的に反復したいのだと実感した。むしろ、そのために動いているといっても過言ではない。

 あとで回想をするために外に出る……というのは、要するにいちど触れたもの・見たこと・聞いたことを、どれほど未来になっても、好きな時にまた脳裏へ呼び出せるようにする行為の基礎部分。記憶(memory)が薄れても、記録(record)が消えない限りは細部を補足して、幻想のように喚起できる。映写機を動かせる。

 ただ、元より知らないものは目の前に顕現できないから、材料がいるのだ。色も、音も、味も、匂いも……1度は知らなければわからない。それが実際の体験により得られるから、体験としての旅行をする第2の動機が、この材料集め。

 

 考えてみれば、慣れ親しんでいない土地を訪れた記憶というのは整合性の代わりに奇妙な鮮烈さを持っていて、しかも、どれほど月日が経ってもそれを失わない。読んだことのない本のタイトルが、頭の中で勝手に物語を紡ぎ出すのと少し似ている。

 そんな風に、あらわれてはほとんど勝手に展開していく景色をどうにか留めておきたくて、記録を始めた。このブログに、最初の記事が投稿された瞬間から。当時は自覚がなかったけれど。

 色々な場所に足を運んで、回想の「材料」をたくさん集めたら、心を閉じて休む。そこには外に匹敵するくらい広大な「現実」の世界が広がっている。単なる夢想、幻想ではない。現実を基にして映し出された、きちんと骨組みのある人、物、風景。

 自分の心を外に開きたくて旅行に出る人も少なくないのだろうが、私はこうして、最後にはそっと小さな鍵をかけるために、旅行をする。

 

 いつか活発に動けなくなって、寝台で静かにまどろむ時のために。

 仮に四肢が動かなくなったとしても、心は好きな時に、胸の中に映し出した風景の、どこにでも行けるようにするために。

 内に引きこもるのにも材料が必要。静かな世界を構築してそこに留まるためには、いちど外に出て、世界はどんなもので溢れているのか知らなければならない。

 

 これを自覚した瞬間、私にとって旅行をする意味と、それによって常に軌跡を変える人生自体が、今までより張り合いと価値のあるものに変わったのではないだろうか?

 振り返るとそう思う。

 私はどうしても、何らかの理由や退屈をしのげる要素がないと生きていられない側の人間なので、実にありがたいことなのだった。

 

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はてなブログ 今週のお題「人生変わった瞬間」