まるで自身の脳内や心理をそっくり映し出したかのような部屋は、所狭しと置かれている物品の傾向だけでなく、微妙な散らかり具合までもが私の持つ性質にそっくりだ。
幼少の頃から幾度か小さな引っ越しを繰り返してきたので、10年以上じっくりと腰を据えて造り上げた「城」は多分これが初めて。そう考えると存外に深い愛着を感じた。実際に目で見て、手で確りと触れられる現実世界の側では、自室は自分が最も安心して過ごせる場所に違いない。
面積はおおよそ6畳程度、正方形に近い長方形をしている。天井は低め。フローリングの床には茣蓙(ござ)を敷く。
寝台の枕を向けた方角、南西の窓からの眺めがとてもよく、特に暖かく晴れた穏やかな日などは、思い切り開け放って風を取り込むのが常だった。夜には星もよく見える。田舎と言っても差し支えない場所柄からか、陽が落ちてから車の往来や人の雑踏を耳にすることは、まずない。
元より出不精で家籠りを志向するゆえに、普段の休日はほとんどの時間をこの空間で過ごしている。比較的モノの多い部屋だ。
所蔵品の中で、最も大きな割合を占めるのは書籍。大判の本から文庫本、画集、資料集、教科書、漫画に至るまで。隅に衣裳箪笥の扉がある壁も含めた三面は、入居してから徐々に本棚へと変わってしまった。窓の半分も塞がれている。とはいえその規模は、世に数多いる読書家の築いた城には遠く及ばない、ささやかなものでしかない。
買っても思い入れの少ない本は順次売りに出すので、部屋は結果的に、自分に大きな影響を与えた本ばかりを内包することになる。
右を見ても左を見てもあるのは私の一部分。そう言ってしまうと気持ち悪い気もするが、本人にとってはかなり居心地が良い。雑多で、無節操で、明らかに好みという偏りがあって。
これは先日、見事に沼落ちしてしまった《十二国記》の棚。王と麒麟の関係性にぐっと心を掴まれてもう昼しか眠れない。
以来、著者・小野不由美氏の他の作品もよく読んでいる。《残穢》にしろ《営繕かるかや怪異譚》にしろ、主題や文章の端々から建物への関心や深い知見を伺えて、似た場所に興味を持つ自分としては本当に楽しく読めるのだ。……閑話休題。
覗きたいと所望する世界を瞬時に眼前に示し、繋いでくれる扉、書物。椅子に座りながら目と指先を動かすだけで、心の方が勝手に歩行や飛翔を始める。そして頁を閉じたとしても移動は終わらない。所狭しと本のひしめく棚の裏から無数に廊下が伸びていることを思えば、この部屋だって、どこぞの王族が暮らす大邸宅とそう変わりない。
最近は電子書籍も頻繁に活用している。そうでもしなければ、きっと精神が旅をしている間に、身体の方が紙の束に埋もれて窒息してしまうからだ。
そんな風に壁の大部分を占める本棚や、机の上も含めた場所のそこかしこに鎮座しているのが、海外旅行や留学中に手に入れた土産物の数々。
先刻は自分のことを指して出不精だといった。それは間違っていない。が、突発的な外出をやめられないのもまた真である。気力さえあれば機会を設けてたまに出掛ける。国内外問わず、どこへでも好きなところへ。そして、時には赴いた先で細々としたものを買う。
雄大なシルクロードの交差点であるウズベキスタンからは、組み紐の腕輪と鸛(こうのとり)の鋏、刺繍の小袋、民族衣装のミニチュア、そして伝統的な柘榴の柄が彫刻された木片を連れてきた。
都市の雑踏の傍らで古代の王と臣下たちが眠るエジプトでは、王墓周辺で採取した砂を詰めた硝子の香水瓶、ヒエログリフで名前を刻んだカルトゥーシュ、パピルスの栞を見初めた。
石の神殿と巨人伝説の残るマルタでは、騎士団の紋章が入ったピンバッジや紅茶の缶に、教会の人が売っているロザリオを。
ドイツで出会ったのは、サンスーシ宮殿の絵柄がついた陶器のティーセット。
枚挙に暇が無いのでこのくらいにしておくが、他にもフランスやノルウェー、アメリカ、長期滞在していたイギリスから持ち帰った物品が部屋中にあり、作業机に座って周囲を見渡せば、そのうちの幾つかが必ず目に入る。
交流のある誰かから頂いたものも少なくない。例えば、数年前に恩師が中国で購入してきた不思議なお面、とか。
それらを室内の適当な場所に設置すると、偽宝物庫じみた空間が自室の片隅に出現して、かなり楽しい。此処は御殿か九天の蔵か――。すぐそうやって遊び始めるから、いつまでも部屋が片付かないのは分かっている。分かってはいてもやめられない。
私にとって旅行や散策は、後に自分の部屋に籠って精巧な妄想を編み上げるための「材料あつめ」という認識なのだ。だから冒険行為自体に興味があるというよりも、現地で動き回って様々な破片を拾い、組み合わせて物語を作り、無限の脳内広場で展開して遊びたい派。今は土産物を引き合いに出したが、それが見聞きした風景や音であろうと、写真であろうと別に構わない。
どちらにせよ自分の中で、外出と引きこもり行為は完全に組み合わさっているといえる。
質量の大きな物品は平らな場所に置きたいが、薄い紙なら壁にも固定できる。
以前、浅草の花やしきで戯れに試した占いを、画鋲で磔刑に処した。小銭と片手を入れると、真実の口を模した穴から結果が出てくるタイプのもの。横で小さな子供に見られて恥ずかしかったのを覚えている。
ちなみに文面はこうだ。全てが半角カタカナ表記なので、怪しさ極まりない。
《La Bocca della Verità》
センレン サレタ アジ ヲ モッテイル モノゴト ニ タイシテ アナタ ハ ヒジョウニ ビンカン ナ ヒト デス。
アナタ ノ シンタイテキ ナ ヨッキュウ ガ セイシン ニ ヨッテ ツヨク セイギョ サレテイマス。
アナタ ハ ホカ ノ ヒト カラ ノ チュウショウテキ ナ カンガエ ニ アナタジシン ガ エイキョウ サレル コト ヲ コノミマセン。
アイジョウカンケイ ヤ ケッコン ニ ヨッテ メイヨ ヤ メイセイ ヲ アナタ ハ エラレソウ デス。
アナタ ハ スベテ ノ コト ニ アキヤスイ タメ ナニカ ケンセツテキ ナ コト ヲ スルノニ ハ カナリ ノ シンボウ ヲ ヒツヨウ ト シマス。
アナタ ノ アイジョウ ヲ ジブンカッテ ナ リエキ ノ タメ ニ リヨウ シヨウ ト スル ヒトガ イマス。
果たして当たっているのか、いないのか。さっぱり分からない。加えて、紙の下部には『セイカツ』『アイジョウ』『ギャンブル』『ケンコウ』『シゴト』の五項目があって、仕事の値が一番高かった。多分素直に喜んでも良いのだろう。
どうしてこんなものをわざわざ壁に貼っているのか、自分の心に聞いても答えは返ってこない。理由が無いから。
また、少し離れた位置の壁を占拠するのは月と銀河系だ。以前県立ぐんま天文台を訪れた際に手に入れた二枚のポストカード。
ここは屋上にストーンヘンジとジャンタル・マンタルを模した立体物が置かれていて、不思議な遺跡に心寄せる幼い私を喜ばせてくれた。確か付近の遊歩道には土地柄か、熊避けの鈴が幾つも並んでいるのを見つけて、それらを嬉々として鳴らしたような。ふと、鼻先を容赦なく刺す山の冷たい空気が蘇った。
思い出や記憶は物の形を借りて室内に積み重なり、場所を占める。
一度置いて固定すると、そこから動かすのが億劫になって、根を張る。
そうして形成された部屋を見回すと、自分がこの場所を造り上げているのか、それともこの場所で暮らしているから現在の自分が造られたのかが、鶏と卵の関係にあると明瞭に理解できる。
だからこそ、積極的に光や風を取り入れたり、簡単で構わないので普段からこまめな掃除をしたりする……。 これらは平時なら当然の行為かもしれないが、本当に必要なのは余裕のない時こそ。部屋であっても心であっても、そういうことを疎かにしてはいないだろうか、と、定期的に自身に問う必要があるのだろう。
たまに出る咳の原因が、換気不足で舞っている埃(ほこり)だと気付けない状況に置かれることもあるから。
最近は部屋で植物を育てている。私とは違う、別の生命体を。
彼らは光を多く必要とするので、朝はできるだけ早くカーテンを開けた方がいい。それを意識しているとスムーズに起床できる確率が上がる。水やりの頻度や量はそれぞれの鉢で異なるから、毎日注意深く様子を見る。最後に如雨露をもったのはいつだったかと日付に敏感になる。加えて、空気が澱まないよう、窓や扉からこまめに風を入れる。
枝葉を茂らす同居人のための各種の習慣が、自然と生活に心地良いリズムをもたらしていた。
外出自粛中の現在であってもそれは変わらない。
ほんの数日前、気の遠くなるほど昔にダイソーで買った色つきの小瓶を出してきて、窓際の草花の横に移動してみた。幾何学模様の柄が施されていて赤と緑の二色。すると、驚くほど周囲の雰囲気が「綺麗」になる。華やかなのではなく、賑やかでもなく、ただ綺麗に。
それは金沢の尾山神社にある擬洋風神門の三階、ギヤマン張りの小さな窓を眺めた際に受けた印象とよく似ていた。
これを読んでくれたあなたは、今どんなお部屋に暮らしていますか。
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お題「#おうち時間」