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彷徨する自由帖

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7月1日(心的避暑地がプラネタリウム)

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街のシンボル

 

 まだ7月1日だというのにもうこれほど暑いのか、と嘆く気持ちになるが、私の懸念は不快な気温と湿度ばかりではない。

 胸の奥には、くすぶる焼け跡がある。そこにいつ火が放たれたのか、燃え落ちて灰になったのが一体何だったのかも今となっては分からず、残骸はただ放置されるままに鈍い熱を持っていた。触れても火傷こそしないが、確実に自信を蝕む「熱さ」が、全身に貼りつく暑さを助長する。喉が渇いて逃げたいと思う。……というよりか、たぶん救われたいと思っている。高く澄んでいるはずの空が、まるで密室の天井のようにも感じられて。

 周囲を見回せば、現在立っている場所から別の場所へとつながる扉が無数にあったが、そのどれもが出口ではなかった。熱されて、暑くて、死にそうで。

 私はこの世界を好きになれない。

 

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旧五島プラネタリウムの投影機
1.

 渋谷駅西口から徒歩約5分、文化総合センター大和田の12階に用意された満天の星空を、40分間眺める権利を600円で買う。ここはコスモプラネタリウム渋谷。終戦を迎えて間もない頃から多くの人々を楽しませ、平成13年に閉館した天文博物館・五島プラネタリウムに代わり、日々番組の投影をしている。

 単に涼しい場所で美しい星を、空を見上げたいと望むのならば、他に選べる手段はいくらでもあった。それが、丸い天井に映し出された人工の映像でなくてはならない理由はどこにもない。

 電車に飛び乗り都市の雑踏を離れて、余計な明かりが存在せず大気も澄んだところまで行き、自然のままに光を落とす天体を眺めるのはきっと至福だろう。また大抵の場合、そういう場所は標高が高いので気温も低い。

 けれど、夏の終わりに自分が訪れるのは、人多き都会の真ん中でなければならなかった。肉体ではなく、精神を苛む熱を散らすために。それだって一種の避暑には変わりないだろう。胸の片隅で煙を立てる燃え滓をなだめるには、幾つかの要素が周囲に必要だった。そうしなければ、癒せないものがあった。

 そもそもこの熱の正体は何者で、なぜ、街のプラネタリウムに足を運ぶ程度の些細なことが、精神的な避暑になりうるのだろうか。

 

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星座早見表
2.

 おそらく私は「自分の力でどうにかできる事柄の数など、たかが知れている」という現実と、定期的に向き合いたいのだと思う。

 地上を動き回る人間と、宙(そら)の天体の様相は少し似ている。例えば通勤や通学で自宅と特定の場所を往復する者は、決まった軌道を描いて公転する星のよう。不意に現れて読めない動きをし、近付いたと思ったらすぐに遠くへ行ってしまう人は、非回帰彗星さながらだ。それから時代を超えて、一種のアイコンとして民衆の信仰を集めている存在は、まるで太陽や北極星。見た目の明るさや形態もそれぞれに異なっている。

 街は仮に私が存在しなくても、明日も明後日も問題なく機能するだろう。星々も同じように、私が誕生するより遥か昔から、変わらずその運行を続けてきた。

 調べたところ、渋谷区の令和元年の人口は約23万人で、コスモプラネタリウム渋谷のスクリーンに投影される星の数は、約26万5千個であるそうだ。それらを観測し、すれ違い、時にはこちらから干渉しようと試みるが、星も人も互いに近付きすぎると崩壊してしまう。

 強すぎる引力で惹かれ合う天体は衝突と破損を免れない。表面に醜く大きなクレーターが残るか、ばらばらになるか、爆発した後の消滅か。それを避けるには、一定の距離を保ちながらつかず離れず、周囲を回転するしかないのだ。観測と交信しかできない。人間もそう。遠くから眺めるだけなら何も問題ないが、一歩でも接近しようと試みるのなら、絶対に目測を誤ってはいけない。うっかり軌道を制御できないほどの引力を感じる頃には、もう手遅れなのだから。

 自分の意思では、どうすることもできない。

 

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注意書き

 加えて、「私がここに存在しなければならない正当な理由」は無い。私でなければできないことなど何もない。

 全てに代替がきく、本当によくできた世界だ。何があるのかではなく、観測する人間がそれをどう解釈するのかがすべて。生まれてくることや生きることの意味など、所詮は後付けに過ぎない。古代人が、単に星と星を線で結んだだけの形を別の何かに見立て、神話を語ったように。

 地上では解釈こそが事実に成り代わる。何があったか・何をしたかではなく、どう認識され、どう記録されたかが真実になる。それを踏まえたうえで、たとえ力を尽くしてもどうにもできないことがある事実を認め、不本意な結果に対して「もっと努力をすれば変えられたはずだ」と脅迫的に思い込むのをやめたかった。

 ――書いていて思い出した。私はかつて、ひとつの星を潰えるまで燃やした。地球の衛星である月に良く似た、綺麗な白い星だったような気がする。

 あまりに空虚なこの世界に耐えられず、意味を求めて放った炎は噴煙と灰を撒き散らしながら、自分が存在する必要性を叫んだ。ここにいるのが私でなければならない、もっともらしい理由を。やがて時が経ち、それが何の効果も上げられないと悟ったころ火は静かになり、今度は残った熱で私の胸を燻しながら侵し始めた。だから、今、こんなにも暑いのだ。

 何の繋がりもない大勢の人間が集う場所で、美しい造り物の星空を眺めている状態の無力感は心地よく、不毛なのに「理由」や「意味」を欲するかわいそうな火を気休め程度に大人しくさせた。

 プラネタリウムは紛れもなく心的な避暑地だった。

 

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投影後
3.

 考えてみれば、幾万の人々が集う渋谷の街の片隅で、無数の星々に囲まれながら、結局私が真っ先に顧みるのはただ自分ひとりのことでしかなかった。全くもって救いがない。

 そう、私が好きになれないのはこの世界ではなく、きっと私自身なのだと思う。何とも繋がれない事実と暇を持て余して、情けなく街をふらつく放浪者。余談だが、惑星を意味する英単語 "Planet" は、「彷徨(さまよ)うもの」を意味するギリシア語に由来するそうだ。皮肉だと思った。

 胸の奥でくすぶり、外気の暑さと共に私を蝕む熱が、自己愛ではなく ”「まことのみんなの幸(さいわい)」のために夜闇を照らす、美しい蠍の火” ならよかったのに。この身を取り巻いているのは、ただの夏の亡霊みたいな蜃気楼で。

 それを振り切ったところで、他者のための愛と献身と悔恨を知らない人間に、慈しまれる資格など無いことが一層明らかになるだけだった。

 

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