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彷徨する自由帖

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趣味に生きる人間が『好き』を楽しめない時期はとてもつらい

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 人生がしんどい、存在がしんどい、そんな根源的な辛さをわりと頻繁に感じる。理由など分からないが面倒な人間なのだ、自分は。こればかりは外野から何を言われたところでどうしようもない。

 とはいえ、この世に生きる大多数の人だって、軽いか重いかにかかわらず色々な種類の悩みや苦しみを抱えているんじゃないだろうか。普段から。具体的な出来事に起因するものもあるだろうし、中には何となく気分が晴れないのが続いているとか、日々のルーティンをこなすのに少し疲れたなど、ふんわりしたものもあるだろう。

 その内容は今さほど問題じゃない。私が気になったのは、生きる上で感じるしんどさへの対処として「『辛い気持ちを忘れるくらい自分の好きな事に打ち込む』のが最適な答え」だとする言説が、あまりに多い点である。猫も杓子も、何か夢中になれることを一つでも見つけられれば人生は絶対に楽しくなる、と大声で宣う。この大嘘つきめ…… さては多趣味な人間の苦しみを知らないな?

 かくいう自分も過去記事の一つで似たような戯言を連ねているし、好きな事――すなわち趣味に没頭するのが、艱難辛苦に対する特効薬であるのは事実だと認める。

 ただし、それは決して万能の薬ではない。

 ほとんど趣味のために生きているといっても過言ではない者として、思う。本来は存在の悩みや苦しみから自分を遠ざけ、時に大きく成長までさせてくれる趣味だが、それを何らかの理由で楽しめない期間が確かにある。そんな時こそ本当に辛いのだ。

 現在、自分は外的にも内的にも趣味の活動を阻害され、非常~にしんどさを感じていると言わざるを得ない。ちなみにその半分は新型コロナウイルス蔓延のせいだ。絶対に許すまじ。邪気、退散。喝。

 では、好きな事に打ち込みたいのに打ち込めない今の状況とその辛さは、一体何に起因するものなのか。正直これを考えても何も解決しないのだが、考えないよりは楽になれる気がするので、とりあえず記事にする……。

 

 

 

『好き』を楽しめない時とその理由

  • 外部要因

 まずは分かりやすい方から行こう。これは単純だ。例えば疫病の蔓延など何らかの緊急事態が発生した際に、国や自治体、委員会によって人間の動きが大きく制限される場合。一個人では全くどうにもできない要因になる。音楽ライブ、試合観戦、会合などの各種イベントが延期や中止になり、意気消沈する人も多いだろう。

 そのためだけに毎日頑張ってきたのに、と嘆く声も少なくないはずだ。突然生きる理由が無くなってしまう。想像しただけで恐ろしい。

 私の場合は趣味の一つに旅行があるので、流行病は大敵。移動で電車やバス、飛行機など、他人のいる空間に長い間留まるため感染のリスクが上がる。加えて、滞在先で博物館や美術館、資料館を閉鎖されると旅の目的のほとんどが果たせない。建物や工場の内部も同様に。身体がちぎれそうになるほど足を踏み入れたいのにもかかわらず。

 2020年3月現在、行こうかなあと計画していた場所が軒並み開いていないので本当に辛いのだ。切実に見学がしたい。

 もともと出不精な性質なので家籠り自体は全く苦でないが、行こうと思えば望む場所に行ける状況と、行きたいのに行けない状況は全く違う。最近は休日にひたすら読みたい本を読んでいる。それ自体も趣味の一つなので別に良いとして、穴が開いて満たされない心は変わらない……。一杯の楽しみがないと働けないのに。

 

  • 内部要因

 さて――上の項よりも数段深刻で、私の個人的な問題に起因するのがこれだ。好きな事に没頭したいのに、できない。理由が無いのに気持ちが沈んでどうにもならない。そう、精神疾患の「鬱」状態である。こいつさえいなければと何度念じたか分からない。

 昔は信じていた。楽しいと感じる何かに思い切り打ち込みさえすれば、余計な事を考えなくて済むようになる、と。残念ながら真実は残酷で、鬱は心だか脳だかにある「楽しさを感じる場所」を勝手に占領して中身を殺す。だから、今まで好きだった事を好きではなくなったり、いざやってみても何も感じられなくなったりする。難儀なことに。

 趣味が無いから人生が辛いのではない。従来のように趣味を楽しい、と思える心が死ぬから、人生が辛くなる。それだけだ。

 また、自分の「好き」だけに依存していると存在の虚しさが増す。

 人里離れた山だか島だかで、仙人のように暮らしているのならともかく、市井で生活する以上は他人と関わることになる。もちろん必要以上に誰かと道を交える必要などないが、必要な人間とすら接点を持てないと良くないのだ。そこにいる意味が全く無くなってしまうから。どんなに心躍る行為を一人で楽しんでいても、自分にとって大切な誰かに大切だと思われない限り、楽しさの向こう側には何もない。生きていても死んでいても同じになる。

 生の苦しみを振り払うように趣味にのめりこんで、全力で駆け抜けて、一体その先に何があるのだろう。全く分からない。もはや好きな事により人生が充実しているのではなくて、どうにか充実させていると表現する方が合っている気がしてきた。

 それで疲弊して休もうものなら「満足感を得られないのは努力が足りないからだ」と袋叩きにされる世の中。普通に嫌いだし、存在していたくない。

 

 

 

 

終わりに

 というわけで、どんなに楽しい趣味を持って私生活が充実していても、辛いものは辛い。人生はしんどい。好きな事に打ち込めば全てを忘れられる時「も」あるが、そうではない時も結構多いのだ。「好き」を全力で楽しめない状況だからこそ感じる苦しみだってある。

 おまけに最初に言及したとおり、これを頑張って考え分析したところで、特に何も解決しない。最悪だ。淡々と自分のことを受け入れ、半ば諦めて明日も起き、働く。また大きな心配なく外出ができる状況になり、気力も戻ってきたタイミングでコツコツ稼いだ金銭を思い切り趣味につぎ込み、無理にでもドーパミンを出して艱難辛苦を忘れるために。

 辛くても精神的に助けてくれる存在はおらず、自分しか自分を守れない以上、そうするより他にないのだから。

 そういえば、去る3月14日には大粒の雪が降っていたのを思い出す。世間はホワイトデーだった。ホワイトデーね。街が賑わう夕方に窓越しの曇天を見つめると、生活を向上させるための努力もあまり功を奏さない、自分の現状が本当に嫌になる。幻想的な天候に恵まれて浮かれているカップル全員、溶けかけの雪で滑って転んでしまえばいいよ。幸せを感じた分だけ痛い思いをしてくれ。ああ、疲れたな。

 

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今週のお題「ホワイトデー」

 

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