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圧倒的な「『無意味』という虚無のベーグル」を調理する方法は? - 映画《エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス》他

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※このブログ記事では物語の内容に言及しています。ネタバレを避けたい人は注意

 

 

 友達にすすめられて、ダニエル・クワンとダニエル・シャイナートが監督を務めた映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(Everything Everywhere All at Once)」を観てきた。略してエブエブと呼ばれている。

 同時に、その直前に手に取っていた本「ほの暗い永久から出でて 生と死を巡る対話」の内容と映画には自分の中で重なる部分がいくらかあると思い、帰ってきてからあれこれ考えた。

 これは文化人類学者・小説家の上橋菜穂子氏と、医学博士の津田篤太郎氏との間で交わされた、いわゆる往復書簡で構成されている著書。生と死を巡る対話、文字通りに私達生物が生きると同時に、いつかは死ななければならないことへの疑問や考察、発見が綴られている。

 

 

 映画の方は「アカデミー賞、作品賞を受賞」という前評判を聞き、それならわりと大衆向けの映画なのだろうな……と感じて鑑賞前の期待値があまりに低かったため、その反動でむしろ"通じる"要素が目に付いた。演出や、作中で提示されたひとつの答えが「個人的な嗜好に合うか」は別として、各テーマの「理解」はできて安堵した。

 色々なテーマが織り交ぜられていても、何かを伝えるために作られた真っ直ぐな物語だと思う。だから、真っ直ぐ過ぎる話、展開のせいでむしろ辟易してしまう観客も多いかもしれない。

 例えば「いや、今更そんなことを言われても」という部分は伝わってくるメッセージの中に確かにあって、けれど無意味さも結果も全部を調理して別のものに変え、生きるしかないのだという諦念と、人によっては希望(に似た何か)だと感じられる観点をどうにか提示しようという意向が伺える。

 そういう意味では、まさに大衆向けの作品だと言えるのかもしれなかった。

 

 数ある可能性の分だけ存在する並行世界……

 例えば人類が誕生した世界、しなかった世界。

 あるいはひとりの人物がAを選んだ世界と、Bを選んだ世界。

 

 各宇宙の分岐によってもたらされる結果が異なるために、それぞれの世界は違う道筋を辿り、枝分かれして同時に存在することになる。映画エブエブを通して描かれるマルチバースはこういったもの。

 さて、ひょんなことからとある並行世界(アルファバース)において、母・エヴリンによる実験(精神的圧迫)を受けた結果、マルチバース状に展開する「すべての選択・すべての分岐の先」を知ってしまった娘のジョイ。

 過去、現在、未来——

 あらゆる出来事の原因と結果の表層を、単なる人間ひとりの身で「観測」できてしまった彼女の精神は、崩壊した。ジョイは世界を脅かす大いなる悪、ジョブ・トゥパキとなる。

 すべての分岐を見通すことでもたらされるのが圧倒的な虚無と絶望なのは、当然。その穴(ニヒリズム)に陥らない人間などほとんどいないはずだ。何もかもが馬鹿馬鹿しく、茶番だと感じられるに違いない。あらゆるものが「単なる偶然の集積」の上に成り立っているのだと心底実感してしまうだろう。

 私が私である意味の、喪失。

 私が私という個でなければならない、その正当性が保証された世界など、実は存在しなかったとしたら?

 

こういう在り様を見ていると、生き物は遺伝子を伝える乗り物に過ぎないという言われ方も、そうであろう、と思わざるを得ません。ただ、そう思うとき、必ず胸にこみあげてくるのは、『なんのために?』という思いなのです。

そうして伝えていく遺伝子は、やがて、どこへ辿り着くのでしょうか。

 

(文春文庫「ほの暗い永久から出でて」(2020) 上橋菜穂子・津田篤太郎 p.19)

 

 ジョイがエヴリンの娘として生まれなければならなかった、具体的な理由……ない。

 反対に、エヴリンがジョイの母親でなければならなかった、具体的な理由……これも特にない。誰にもきちんと説明ができない。

 あくまでも偶然、結果的に、そうなっている。

 生まれる前の人間が何かを選んで誕生するというのは一種の幻想で、他にも都市部に生まれるか、砂漠に生まれるか、戦場に生まれるか、陸地のどの場所で生まれるかを、私達は自分の意思で選べない。

 もしかしたらこの先、何らかの研究によってその原理が解き明かされたり、本当は選択をしているのだという研究結果が発表されたりするのかもしれないが、今のところその気配はないようだ。

 映画で「『本当に意味のある時間』なんてごくわずか」なのだと語ったジョイの言葉は諦念と哀しみに満ちている。意味……私達がどこかで「在ってほしい」と思っているもの、けれど実は、世界と向き合う人間の側が勝手に「在る、と想定する、または信じる(恐ろしい言葉だ)」より他にないもの。

 すべての分岐を観測したわけではない私ですら、それはちょっと耐え難い、と感じる瞬間は頻繁にある。個人的な喜びや哀しみ、そこに「原因」があったとしても、では「なぜ自分がそう感じなければならなかったのか」と最も根源的な理由の部分を突き詰めていくと、結局は「無」に到達するからだ。

 

 脳裏に閃く、あの暗黒のベーグル……。

 無意味という、虚無という、ターミナル。

 それが何もかもを呑み込んでいくヴィジョン。

 

 

 

 

遺伝子が生き延びていく、その目指す果てはどこ? あるのは生き残るという行動だけで、目指す果てがあるかどうかはわかりません? だとしたら、なんで私たちは、目的だの意味だのを考える頭をもっちゃったのでしょう?

 

(文春文庫「ほの暗い永久から出でて」(2020) 上橋菜穂子・津田篤太郎 p.74)

 

 考えてみれば、現代を生きる人間の生は、常に映画内で描かれた暗黒のベーグルと共にあるのではないだろうか。檻の中にこもって、半径数メートルのことだけを毎日考えて暮らすのでもない限りは。

 情報社会で生きていると多種多様な「もしも」の可能性が目に入る。

 あの時こうしていたら、あの場所に立っているのはあの人ではなく、私だったかもしれない……というような。ダニエルズ両監督へのインタビューでも、膨れ上がっていくマルチバースの分岐描写は、インターネット時代を生きてその影響を受ける精神のメタファーだと語られている。

 でも、己の意思で選べるのは、実はごくわずかな事柄だけ。

 全ては偶然の集積に過ぎない。そんな「ここに居る/在る」ことの根源的な不毛さに落胆し「(ベーグルの穴の)向こうに行かせて」とジョイが言う切実さを、果たして何割の人が理解するだろう……と考えずにはいられなかった。恐るべき人生の一回性。再現不可能な全部が単純に原子ほか、何かの配列であって、意味が介入できる隙間などほとんど無い事実に。

 なんとなく市川春子の漫画「宝石の国」も思い出す。

 

 

 フォスフォフィライトが「自分は『どこから』間違えたのか、一体『どうすれば』よかったのか」と自分に疑問を抱き、選択の分岐をひとつ前、またひとつ前、と遡った先に残る「そもそも存在しない方が良かったのかも」の苦しさ。

 こういう「じゃあ結局どうすれば良かったんですか」に対するようなユークレースの言葉「長い時間をかければ難しい問題も乗り越えられる」「皆が満足する答えが見つかるはず」など、これらが口にされる圧倒的な空虚さが実にたまらない。そんなものは(少なくとも漫画の作中には)無いですよ、と片される悦楽。

 世界に存在する何かに「意味」を見出して飾りにしたがるのが人間だと言及されるのが本当に好き。間接的な表現でもいいからそこに踏み込んでほしいなと思う、ひろく生命を描く作品なら。偶然の集積の上になぜか発生したヒトというもの……。

 途方もなく長い星の時間の中に、人も、他の生物もただいるだけ。

 フォスがあの性格を持っていたこと、綺麗な色をしていたこと、壊れやすい性質をしていたこと、何かを欲したこと。本来であれば全てに「意味」も「理由」もなく、月人に目をつけられる要素が揃ってしまったのもことごとく「偶然」で、ただの自然。アユム博士が述べたみたいに。

 なぜ人間が生まれ、どのように世界を認識したのか、その世界の始まりは何だったのか、因果を説明できる者などこの世に存在しないところが重要なんだと思う。

 

 そして映画エブエブの中では、実のところ無数に存在する世界のほとんどが「有機生命体の存在しない世界」であることがジョイから語られる。

 静謐な荒野。初めから岩や石、砂以外の無い、生物が「発生」すらしていない領域には当然ながら、歓喜や苦痛をはじめとした人間の感情もない。安らか……と表現しても構わない光景だろう。人であることにも、可能性にも、無意味さにも疲れ切った魂にとっては。

 それでも、とエヴリンは思うのだ。

 自らの夫であり、ジョイにとっては父であるウェイモンドが最後まで貫いた態度に心を打たれて、彼女は「それでも」と言った。

 その前に述べられていた内容をことごとく覆す言葉を使い、もしもの世界にいたかもしれない「理想的な娘」ではなく、あるいは苦しみすらない「無の世界」でもなく、不完全でも今こうして目の前に存在する「あなた」と居たいのだと……。

 

ですから、私たちは「最適解」を手にしたから生き残った、という風に考えるのは間違っているのではないでしょうか。

(中略)

いろいろな偶然、熱力学の法則でも説明のつかないような奇跡が重なって、存在している。このことには何の目的もなく、また「進化」に何が正解、という事もないのでしょう。

 

(文春文庫「ほの暗い永久から出でて」(2020) 上橋菜穂子・津田篤太郎 p.99)

 

 これこそが記事の最初に言及した「いや、今更そんなことを言われても」と言わずにはいられなかった箇所に他ならない。

 すべてを見通したジョブ・トゥパキほどではないが、私ももちろんこの世界の根源的な無意味さと、正解のなさ、個を超えた場所にある「生命の目的のなさ」や脱力感に苛まれてわりと疲れている。現代社会の片隅で常に虚無のベーグルの端っこをかじっている。

 あの時ああしていれば何かが変わったのかもしれないけれど、でも、もうその分岐からやり直すことはできないし、とうんざりする。

 ウェイモンドに優しさの重要性をいくら説かれても、滂沱の涙とともに「だからどうしたって言うんだよ!」と大暴れせずにはいられない。時に優しさというものはどこまでも無力だからである。

 でも、気が付くと私はスクリーンの中の彼を見ながら別の涙を流している。どうしてなのだろう、と思いながら。優しさじゃ全部の人間は救えないのに、と毒づきながら、もしもそこに行くことができたら「幸せ」なのかもしれないとも感じる。結果、せいぜい自分を中心とした、半径数メートル程度の世界しか見えなくなってしまうのだとしても。

 この葛藤に人類が何らかの答えを提示できる日は、私が生きているうちにはきっと訪れない。

 

 ふと、米国のニューヨークで美味しいベーグルを食べた時のことを思い出した。

 ストロベリークリームチーズを挟んだもので、注文の際に「トーストするか、しないか」と聞かれたのをよく覚えている。きちんとベーグルを味わったのはそれが初めてで、よく分からないままなんとなくトーストしてもらったのであるが、それが正解だった。表面は乾燥して香ばしく、内側には弾力があり、クリームとよく合い……。

 そういう過去の一場面を振り返りながら、想像している。

 映画に登場したあの暗黒の、虚無のベーグルをトースターで焼いて食べてみることを。何より巨大だから食べきれず、永劫に空腹を感じずに済むだろう。どうせすべてがその無意味という穴に吸い込まれて消えるなら、熱を加えようが切って何かを挟もうが、別に問題はないはずである。

 それが単純に美味しければいいのに、と思った。

 

私は、この世に在ること、そのものを、哀しむ心をもって生まれてきました。

その哀しさや虚しさを宥める道を探すために、多くの物語を紡いできました。御伽噺ほど無邪気に都合良いものでは満たされず、さりとて、文学よりは、幸せでありたいと願う心に寄り添いたくて、矛盾する様々な糸を、あるときは矛盾のままに、あるときは知恵で辻褄を合わせながら、物語を紡いできました。

 

(文春文庫「ほの暗い永久から出でて」(2020) 上橋菜穂子・津田篤太郎 p.168)

 

 だからだろうか。

 上橋菜穂子氏のこの言葉は、映画を観た後だと特に、心に感じるものがあった。