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参考サイト:
浦上天主堂(公式サイト)
大正時代初期から今に至るまで稼働している市民の足、長崎電気軌道。そのうちいくつかの路線は浦上川に沿い、地図を眺めてみると、まるで南の港から北の水源地を結ぶようにして伸びているのがわかる。
無数の橋が渡された川は、それ自体が線路の記号にもそっくりだった。
私は平和公園停留場で車両から降りて北東へと向かった。平和祈念像のある丘の向こう、旧浦上天主堂(大正3年に完成。昭和34年の再建後、今はカトリック浦上教会と呼ばれている)の鐘楼の遺構を見るためである。
2019年の2月か3月か、肌寒かった時期に足を運んだはずなのに、振り返ると夏だったような気がしてならない。記憶を探ると必ずこの錯覚に陥る。
1人で国内の各地に残る近代の建築物を巡り始めた、最初の頃だった。そういえば。
公園から階段を下り、水路の脇を歩いて今度は坂道を上る。
起伏の多い土地は自分の出身地に似ているからか、疲れるけれど不思議と散策しやすい、と思う。そのうち右手の遠くに塔の頭が見えてきた。
赤褐色の教会は一枚の絵葉書みたいに視界の枠を定義してくる。かなり厳密に。何もここに限った話ではなく、石造りの建物全般には四角いフレームがよく似合う。
浦上天主堂は、かつて東洋一のロマネスク聖堂と称えられた。
壮麗な佇まいは確かに一見に値する。現在この場所に建っているカトリック浦上教会は昭和20年、原子爆弾が投下された折に甚大な被害を受けて倒壊し、戦後に再建されたものだ。
明治28年から大正3年にかけて、天主堂の本体が完成。加えて大正14年には双塔とドームも追加となり、そこに聖鐘が吊るされた。今でも二つのうちの片方は残っていて街に時を知らせており、通称「アンジェラスの鐘」とも呼ばれている。
それでは残る「もうひとつの鐘楼」がどこにあるのかといえば、現教会の膝元、坂の下の川のほとりだ。強烈な爆風で吹き飛ばされた頭部が当時のまま、一部を埋没させて陽光にまどろんでいるのを眺めた。
付近には煉瓦の壁の欠片も展示されていた。
以前はちょうど、旧鐘楼の横たわっている位置に川が流れていたのだという。保存にあたってその軌道を変える工事を行ったそうだ。
昔は周囲の何よりも空に近い場所にあった鐘楼が、半分に割れて地面に頭を預け、先頭アーチ状の輪郭と内部構造を晒している光景が悲しみを誘う。それでいて、独特の清らかで落ち着いた感じも醸し出されている。異なる角度からも眺めてみると、裏側に花のような石のレリーフがあるのも確認できた。
破壊されてのち、ほとんどの瓦礫が片付けられてしまった旧浦上天主堂において、このように竣工当時の遺構が一部分でも残っているのは貴重である。このほかには現在の教会前に、外壁の一部と数体の聖像が佇んでいた。
ちなみに建物内部での写真撮影は禁止されているが、信徒の方々を妨げなければ内部は自由に見学することができるため、静かな空間にそっと身を置いてみると心が落ち着く。私は個人的に教会の空間が好きだ。
近代遺産の愛好者として、もう明治大正期に完成した浦上天主堂は残っていないのかと訪問前は肩を落としていたものの、復元された教会の周囲には思ったよりも多くの遺構があって嬉しく思った。
以前の天主堂も、昭和に建てられた新しい浦上教会も、共通しているのは人々の祈りの具現であるという部分。同じ長崎市内にある大浦天主堂をはじめとした施設を拠り所に、この土地に脈々と受け継がれてきたものがある。
旅行者として現地を訪れるということは、こちらに自覚があろうとなかろうと、直接その堆積された歴史の一端に身を浸す行為だ。そしてもしも知識があれば、さらに異なる階層に分かれた風景を網膜に映せるし、風や草木の影には何らかの声を聴くことができる。
真夏に散策した長崎は美しい場所だった。過去を調べるほどに、そう思う。
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