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旧フランス領事館公邸の遺構を覗く|横浜山手の丘散歩Ⅱ

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前回の記事:

 

 港に面した土地には、故あって外国由来の名前を授けられた小路やら、橋やらが本当に多くある。南の長崎はオランダ坂、そして神戸は人名風のハンター坂にトーマス坂など、例を探せば枚挙にいとまはない。

 横浜・山手の一帯も例に漏れずそのうちの一つだ。

 なかでも「フランス山」と呼ばれている、港の見える丘公園の北に隣接するエリアには、名前の由来となった趣ある遺構が残っている。すなわち、かつてあったフランス領事館公邸の痕跡が。

 そこは公園さえ開いていればいつでも立ち寄って眺めることができる。丘の上、特に陽当たりのよい開けた場所にある遺構であるから、廃墟に特有の陰翳とは無縁なところがまたおもしろい。

 

参考サイト:

横浜開港資料館

 

 

旧フランス領事館公邸 遺構

 

 晴れた日の午後。柱の間から、こんな風に光が射しているところに行き会ったなら、きっと幸運だ。

 四角い支柱も張られたタイルも、遺構として残っている部分を構成する形はシンプルで、手の込んだレリーフも玻璃窓のアーチも無いが、決して無味乾燥だという印象は与えられない。壁の上部を覆っている緑の蔦もその一因なのかもしれなかった。

 ここにかつてのフランス領事館、そして領事官邸が建てられたのは,、明治29年3月のことだった。設計を手掛けたのはフランス人建築家、サルダ。それに合わせて、まだ上水道の整備されていなかった丘の上には煉瓦造りの井戸が作られ、水をくみ上げるための風車も設置される。現在みられる背の高い風車は資料をもとに再現されたものだ。

 少し離れた場所に保存された井戸がある。

 

 

 いまはもう水も枯れ埋められているが、おおよその深さは30メートル。こうしてシダ植物の湿った色で竪穴が満たされているのも趣深いものだと思う。

 幸いにも煉瓦造りの井戸は被害を免れているものの、その親であった二階建てのフランス領事公邸は、まず大正12年の関東大震災により倒壊。そして再建後の昭和22年にも、不審火により焼失している。私たちが眺めているのは昭和5年に建てられたものの遺構、ということだ。

 昭和22年といえば、まだ第二次大戦が終結してまもない時期である。その折に外国大使館で不審火が発生したとあれば色々と推測する事柄もある。しかし、真相に関してはは不明。

 遺構のより内側へ足を踏み入れてみると(そもそもあるのが壁の一部と柱だけなので、何をもって内側と言っていいのかよくわからないが……)、途中から行先を見失った階段に出くわす。これがただ、ぽつりと地面から生えている。

 


 

 

 

 記事を書きながら手元の本《超芸術トマソン》(著・赤瀬川源平)を読み返した。いわく、トマソンの定義は「不動産に付着していて美しく保存されている無用の長物」……であるそうだ。

 厳密にいえばそこからは少しずれる気がするが、この階段もトマソンの親戚、と表現して差し支えないと思う。

 地面に接しているのに向かう先が途切れている階段は、どこか発されなかった言葉に似ている。喉元までこみあげたものの届ける気がなくなったか、あるいは届ける対象が目の前からいなくなったのか、いずれにせよ同じことだ。

 役割を持って確かに存在したけれど、もはや用を足さなくなった存在。周囲にあるものもそんな感じがする。風雨をしのげない壁に窓。暖房か水道か、突き出たパイプ。切断されている。

 誰もそこに暮らさなくなっただけの家はそれでも「家」と呼ばれるが、実際に暮らせなくなった、とあれば、その時点で家だったものは名前を変える。廃墟とか遺構とか、それに類するものに。住もうと思えば簡単に住める場所とそうでない場所では、性質が大きく異なるということなのだろう。

 

 

 

 

 単なる壁ではない、何か特定の部屋を思わせる痕跡も少なからずある。バスルームかキッチンか、あるいはお手洗いか、水を使う場所に用いられていたのだろうという感じの白いタイル。

 特に目を引く装飾の文様などは見られないが、一種の趣、としか表現しようのないものは確かに存在している。私はガラスとかタイルとか、基本的につるつるとした素材が好きだ。建物に用いられるそれらの多くは光を通す(つまりは濾過するということだ)、あるいは反射する。文字通りに邸内の空気を左右する。

 暗がりの中で魅力を発揮するものもあれば、こうして否応なしに外光に晒され、晴れた日の昼間は常に照らされているものなど、姿は千差万別である。

 壁や床など他の部分に施されたうす橙色のタイルを見るに、この邸宅に使われていたものは大部分が正方形であったようだ。また参考にした横浜開港資料館のサイトによれば、遺構の発掘の際に出土した物品の中には、あのジェラールの洋瓦も含まれていたという。

 

 

 遺構の周辺地区が「フランス山」として新たに整備されたのは昭和47年、今からおおよそ50年ほど前のこと。そもそも幕末、文久3年の頃からこの近く、山手186番地にはフランス海兵隊の駐屯地があったため、もとより縁のあった土地だということになる。

 旧フランス領事館公邸はもはや誰も住まない廃墟だが、その敷地内に足を踏み入れてみても、特に拒まれているとは感じない。そもそも何者かの侵入を拒む余地がない。だが反対に、これといって歓迎されているとも思えない。ただそこにある。

 数はさほど多くないまでも色々な洋館、あるいは保存された近代建築に触れてきたが、旧フランス領事館公邸の遺構は雄弁に語る性格ではなく、どちらかというと寡黙な印象を受けた。訪問者であるこちらが黙っていても喋るタイプではなく、けれど尋ねれば、ある程度のことは答えてくれる。

 きっと彼(あるいは彼女)は人間の声よりも、いつも傍らに立つ、背の高い風車が奏でるささやかな音に耳を傾ける方が好きなのだ。

 

 

 そこから道に沿って歩けば不意に、足元。つま先の横。

 公園内には他にも取り除かれず、こんな風にさりげなく残されている煉瓦の痕跡がある。

 とってもシャイで、向こうから声を掛けてくれることは少ないから……私たちの側が、常に感覚を削ぎすましてその姿を探さなくてはならない。

 

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