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彷徨する自由帖

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世界遺産・大浦天主堂~日本二十六聖人と信仰の道標を訪ねて|長崎一人旅(1)

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宣教師フランシスコ・ザビエル

 1953年に日本の国宝へと再指定、そして2018年には世界文化遺産に登録された、長崎の大浦天主堂

 今年の春に私が訪れた際には、修繕完了後の真っ白な外壁が小高い丘の上で陽の光を受け、輝いていたのを思い出す。

 ポルトガル人の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、日本にキリスト教を伝えてからの歴史は450年を越える。信者の増加と政府からの迫害や、鎖国時の長い潜伏を経験し、開港をきっかけにようやく建設を許可された教会は、背景にある物語建築そのものも興味深い貴重な史跡だった。

 敬愛する遠藤周作の著作《切支丹の里》(長崎・カクレキリシタンの村々をめぐる紀行文)を読んで決行した、この長崎市内旅行。記事では現地で邂逅した風景や、受け継がれてきた記憶の一部を共有したい。

 

参考サイト・資料:

大浦天主堂(大浦天主堂公式サイト)

日本二十六聖人記念館(日本二十六聖人記念館公式サイト)

おらしょ-こころ旅(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産)

 

 

  • 日本二十六聖人

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日本二十六聖人記念館

 そもそも大浦天主堂は、いったい何に捧げられた教会なのだろうか。何故、この場所に建てられる必要があったのだろうか。

 それらの問いの答えは、大浦天主堂の正式な名前――《日本二十六聖殉教者聖堂》という呼称――のなかに示されている。

 16世紀半ばのキリスト教伝来以来、日本・長崎の地は「小さなローマ」といわれるほど多くのキリスト教信者を抱える街となっていた。海沿いには数々の教会が立ち並び、南蛮貿易で港に立ち寄る外国人だけではなく、元来の住民たちも足を運んでいたといわれる。

 また、当時イエズス会は主要な港として横瀬浦を利用していたが、それを管轄する領主であった大村純忠は、日本初のキリシタン大名として有名だ。

 

 だが、そんな華の時代はさほど長く続かなかった。

 本能寺の変以降に大きな力を持った豊臣秀吉は、増加する信徒の数に伴うキリスト教勢力を警戒し、1587年に伴天連追放令を下すことになる。これにより外国人宣教師は国外退去を命じられたが、貿易に執着していた秀吉はそれに支障が出ないよう、多くの例外をゆるし、追放令は徐々に形骸的なものになっていったという。

 そんな中で、本格的なキリスト教徒迫害の契機となったのは1596年のこと。

 現在一般に、「サン=フェリペ号事件」と呼ばれている出来事だった。

 

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聖人たちの像

 フィリピンからメキシコへ向かおうとしていた一隻のスペイン船、その名が前述したサン=フェリペ号である。

 複数人の司祭を含んだ船員たちは、道中に東シナ海で台風による海難の憂き目に遭い、積み荷を殆ど捨てた状態で土佐(現在の高知県)に命からがら流れ着いた。彼らは日本政府からの手厚い支援を期待していたが、反対に数々の物品を押収され、果てには処刑される可能性までもが目の前にちらつくことになってしまう。

 起こった事の顛末の真偽はまだはっきりと解明されていない。

 一説によれば、船員のうちの一人が日本政府から受けた処遇に激しく憤り、日本側の奉行にこう訴えたとされる。「スペインは強大な力を持つ国であり、それはキリスト教の布教によって行う現地人の改宗と、武力による制圧・占領によって実現されてきた」と。

 当時の記録がほとんど残っていないので、この発言についてはあくまでも噂の域を出ない

 しかしながら、サン=フェリペ号漂着の直後に新たな禁教令が発布されたこともあり、それに伴って行われたキリスト教徒の処刑と何らかの関連があると推測されている。

 この年の禁教令を機に連行・処刑された宣教師、修道士を含む二十六人の信徒が、現在日本二十六聖人と呼ばれ、後に大浦天主堂を捧げられた殉教者たちだった。

 

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処刑が行われた西坂の付近

 二十六人の中には、まだ年端もゆかない12~14歳の子供も複数いた。彼らの磔刑は長崎市の西坂という場所で行われ、現在そこには日本二十六聖人記念館が建っている。

 館内では、今際のときに書かれた親への手紙や遺言、書簡を見ることができ、自らの信仰を貫き散っていった彼らの声の片鱗をかすかに聞いたような気がした。特に、十字架の上から聴衆に語り掛けたパウロ三木の言葉は一読に値するものだろう。

 彼らは1862年にローマ教皇によって列聖された。

 やがて秀吉が亡くなり、キリスト教に対して比較的寛容だった徳川家康が実権を握るようになると、盛んに行われる貿易と行き来する宣教師たちの労力の賜物か、長崎は改めて小ローマとして発展する様子を見せる。

 だが、活発化するイエズス会の活動に加えて、当時のキリシタン大名・有馬晴信と関係者が起こした一連の事件(グラサ号事件など)をきっかけに、幕府のキリスト教に対する態度は急速に硬化することに。

 

 1613年にはついに正式な禁教令が布かれ、宣教師の追放や処刑が行われるようになった。

 加えて、三代目の将軍となった家光の鎖国政策により外国人の流入は制限され、この時期に有名な「出島」が造られたり、天草四郎を筆頭にした島原の乱が発生したりする。それはまた、キリスト教徒にとっても今まで以上に長い受難の始まりだったといえる。

 迫害と隠匿の期間は、約250年のあいだ続いた。

 

 

 

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記念館の壁画モザイク

 禁教下の日本では、迫害からどうにか逃れて信仰を守ろうとする動きがあった。

 彼らは潜伏キリシタンと呼ばれ、かつて神父から受けた教えを継承しながら、独特のやり方を採用し秘かに信者として暮らしていた。長崎の中心部を離れて、五島や黒島、平戸の方へと移住した者も多い。

 この時期に建てられ、今も残っている教会が複数ある。

 

 あるとき、布教活動をしていた一人の日本人伝道師バスチャンが幕府に捕獲され、二十六聖人たちと同じように西坂で処刑された。

 彼は以前に四つの予言を遺しており、その中には「皆(信者たち)を七代まで我が子とし、その後は懺悔の声を聴く神父が黒船に乗ってやってくる」「日本のどこにいても堂々とキリシタンの歌を歌って歩けるようになる」というものがある。

 面白いことに、それからおおよそ七代後の1865年の頃、フランスから派遣された神父が建てた教会で「信徒発見」の奇跡が観測されることになるのだ。その場所こそが、他でもない大浦天主堂だった。

 時代は幕末。

 港が開かれるにあたって、長崎でも外国人商人のための屋敷が多く用意され、そこからさほどの間を空けずに、日本は開国へと踏み切る。

 

  • 大浦天主堂

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大浦天主堂正面

 1863年に日本へと派遣されたフューレ神父の当初の計画では、この教会を二十六聖人に捧げるため、殉教の地である西坂で建設を行う予定だった。

 しかしながら、外国人居住区ではない場所にフランス人神父が教会を建てることは許されず、仕方なく居住区のすぐ隣の土地を選ぶことに。有名な旧グラバー邸にほど近いここは、長崎を見渡すことのできる小高い丘の上にあり、西坂の方角に向かって教会堂の正面が向くように設計された。

 大浦天主堂は日本にある洋風建築の中で初めて、国宝に指定された建造物になる。内部での撮影は許可されていないので、ぜひ公式サイトに掲載されている写真の数々を見てみてほしい。

 この建築の魅力は多く、どこから言及していいのか分からなくなってしまうが、何といっても当時の技術者の努力には感服せざるをえない。まだ西洋の建築様式に対する理解が薄く、材料も満足に手に入らない状態でも、彼らは機転を利かせて素晴らしい建物を作り上げた。

 

 このとき棟梁として活躍したのは、意欲ある若手・小山秀之進という人物だった。

 依頼を受け、神父に手渡された設計図には外国の単位で記載された寸法や、見慣れない単語が並び、それを彼なりに解釈するのにはしばらくの時間を要したことだろう。

 全てを西洋の手法で再現するのではなく、ところどころに日本式のやり方を持ち込むことで醸し出される面白さと美しさが細部にある。屋根がスレートではなくで葺かれている部分も見逃せない。

 大浦天主堂に限らず、近代の洋館を鑑賞する際の醍醐味のひとつは、その部分をじっくりと眺めることで感じられると思う。

 

 館内での写真撮影はできないため、入場券とともにいただいたパンフレットの紹介写真を掲載する。

 

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パンフレットに掲載されている写真

 入口の扉をくぐって上方を仰ぐ。特徴的なリブ・ヴォールトの天井(つり天井)をはしる木の枠が良い。これはぜひ実際に訪れて、柱の頭と弧の先が接しているところを間近で見てほしいものだ。

 また、大きな複数のステンドグラスから光を取り入れるゴシック様式の教会は、足を踏み入れる者の心を驚くほど穏やかにする。

 実際にフランスから持ち込まれたマリア像の前では、祈りを捧げるために佇み、手を合わせる人が尽きることはなかった。

 

 1865年に大浦天主堂が完成した一か月後、3月17日にこの場所で、前述した「信徒発見」の奇跡が起こったと伝えられている。

 事の次第はこうだった。まだ大浦天主堂を訪れる日本人など殆どいなかった頃、帰国してしまったフューレ神父に代わって応援にやってきた、プティジャン神父が聖堂内で祈りを捧げていた。すると老若男女を含む15人程度の日本人が側に来て、何かを囁く。

 耳を傾けてみると、彼らは「私どもは貴方と同じ信仰を持っています」という旨の言葉を述べているようだった。マリア像を目にして感嘆の言葉を口にする彼らを見て、プティジャン神父は驚くと同時に、深い喜びの念に包まれたことだろう。

 250年の長きにわたり、厳しく辛い迫害の時代を乗り越えて、信仰は途絶えずに生き残っていた。司祭の消え去ったこの極東の島で。彼は横浜に滞在していたジラール神父に手紙を書いて、このことを報告した。

 日本で起きた「奇跡」はヨーロッパでも話題になり、最近では2014年に来日したフランシスコ・ローマ教皇も演説の中で話題として取り上げている。

 

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天主堂横

 信徒発見の後も、日本では大規模なキリスト教徒の検挙や拷問、流刑が何度か行われ、ようやく禁教令が廃されたのは明治6年の頃だった。

 教会に足を運ぶ信徒が増えたことから、大浦天主堂も改装工事を行い、創建当時と比べて広い入り口と2倍の大きさを持つ、現在と同じ姿へと生まれ変わった。

 今日もここには多くの人が訪れ、受け継がれてきた信仰の記憶の糸は、未だ絶えることなく紡がれ続けている。

 

大浦天主堂の歴史:大浦天主堂の歴史 | 国宝 大浦天主堂

 

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 この大浦天主堂の他にも、長崎滞在中はグラバー園、旧香港上海銀行長崎支店、そして出島など洋館や和洋折衷の邸宅がある場所を見学して回った。

 長崎市旅行(2)はこちら: