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彷徨する自由帖

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旧送水ポンプ所の建築を使った「神奈川県水道記念館」- 近代水道百選にも選ばれた土木遺産・寒川町

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参考サイト:

神奈川県水道記念館(公式)

神奈川県ホームページ

 

 最寄りは宮山駅で、相模川にもほど近い寒川神社、別名・相模國一之宮に伝わる歴史は長い。

 その奉幣は雄略天皇の時代にさかのぼり、社殿の建設は西暦724年の頃と、現在に至るまでおおよそ1600年近くの時を刻んできた……と考えられているそうだ。途方もないことに。ちょっと思いを馳せるだけでも、こちらの体まですっかり骨に変わってしまいそうなほどの年月。

 毎年冬の時期には、凝った「迎春ねぶた」が出る。

 

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 特にこれといった催しがなければ、辺りは実に静かなもの。

 神社の正面から境内を出て道を辿り、まっすぐに三の鳥居、二の鳥居と順に出会って、一の鳥居が視界に入る手前で右折をする。交差点には目印となる看板があるので分かりやすい。そこからしばらく歩くと、テニスコートとプールの向こうに「それらしい」建物の影が見えてきて、私はとても安堵した。こうして書くと簡単でも、実際の距離は結構長いのだ。

 一口に近代建築といってもそれらの外観は千差万別だが、やはり当時の空気というべきか、あるいはこういった土木・産業系の遺産からよく感じられる類の印象なのか、特徴的な雰囲気がここにもある。

 格式と同時に親しみやすさを覚える風貌。長方形のブラウニー、黒砂糖を使った焼き菓子、栗羊羹に、ドライフルーツ入りのティーケーキ……のような。最後に挙げたものは、イギリスで一般的によく食される甘いおやつだ。ともかく、この建物はそれに見た目が似ている。

 

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 そんな建物の手前には当時使われていたポンプのほか、小さな丸い泉に河童の像がいた。毎日、決して尽きない水に頭の皿を潤されて幸せだろう。

 この水道記念館は昭和11年、すなわち戦前に竣工した送水ポンプ所を改装して、1984(昭和59)年に開館したものだ。たったいま気が付いたことだが、西暦がオーウェルの小説の題になる。

 当時の送水ポンプ場の管轄は、昭和8年に日本で最初の広域水道として整備された寒川第一浄水場。相模川を利用し周辺地域へ十分な水を供給するために、市民の訴えが県議会で可決され、県営事業が発足した。広大な相模原から湘南、浦賀の方までも送水管を伸ばす一大事業だったそうだ。

 個人的に、いつか散策した近代の開拓地・那須疎水の周辺を思い出した。人々の暮らす所には、何を差し置いても水が要る。

 

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 改めて、もう少し近くから外壁を眺めた。

 遠目からだと煉瓦にも見えるこの壁はスクラッチタイル貼りで、正面に回ると建物の全体はきれいな左右対称だ。縦に細長い窓のてっぺんが三角形を描いているのも良い。それらが扁額の掲げられた入り口上部の屋根と呼応し、調和している。

 想像を働かせれば、聴こえてくるのは水音や機械の音だろうか。水源から汲み上げられて、時には攪拌され、時には凪いだ状態にさせられて形を変える水の形。やがて管を通り抜けていくそれらが、必ず経由する場所がここだった。

 同時代の洋館を前にするのとは、また異なる楽しみを見出せるのがこうした建築の魅力だと思う。発電所やら浄水場やら、工場やらにわざわざ行って何が楽しいのかと誰かが問えば、眉を下げた薄笑いで答えを返すほかない。琴線に触れなければそれまでだ。

 

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 水の広場と名付けられた庭園を超えて、裏に回れば石でできた旧正門がある。

 単なる門柱の遺構と侮ってはいけない。この石造りの白く細い身体の造形、昭和11年の寒川第一浄水場創設当時から残っている滋味を、視覚から感じよう。近くにある記念碑も、同じ年に設置されて以来ずっとあるそうだ。

 水道記念館の展示品の中で興味深かったものが二つあって、ひとつは明治初期に使われていた四角い木製の水道管、そしてもうひとつが、小田原電鉄が経営していた強羅水道の消火栓だった。

 特に後者は、関連して箱根登山鉄道の記事もぜひ参照されたい。2019年10月12日に上陸した大型台風19号、ハギビスによる大きな被害を受ける前に散策した記録になる。同鉄道は存在自体が貴重な現役の近代遺産であり、崩れた線路を報道で目にするのはとても心が痛んだ。閑話休題。

 

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 日本で初めて近代水道が整備された県、神奈川。その発端を辿れば明治の前、安政6(1859)年に横浜港が開港し、大幅に地域の人口が増加したことが理由として挙げられる。

 明治初期の頃に使われていたのは上の写真のような木の樋(とい)で、密閉性や衛生管理の点で大きな問題を抱えており、感染症の流行をもたらした。その影響で当時あった水道会社は潰れてしまう。

 神奈川県はお雇い外国人、イギリス出身のヘンリー・S・パーマーに依頼して、鋼鉄製の水道管を用いた近代水道設備の普及を試みた。やがて1887年にそれが完成した後、事業は横浜市へと引き継がれることになる。

 今は蛇口をひねれば当然のように供給される清潔な水だが、昔は井戸からひいたものを生活用水として利用していたのだから、興味深いし恐ろしい。それもほんの百数十年ぽっち前の話だ。

 

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 写真は、掲示してあった「縣營水道計畫平面圖」。私は地図が好きだ。どんな種類のものであっても、その線と面の集積の中に宝物が隠されているように思えるから。実際に記載されているものとは全然関係がないのにもかかわらず。

 横浜港の部分をじっと見つめていたら、汽笛が聴こえた。大佛次郎の小説を読みたくなってきた。

 

 この神奈川県水道記念館は無料で見学することができる。