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彷徨する自由帖

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夜の輪郭 / 記憶の中の火

 

 

はてなブログ 今週のお題「やる気が出ない」に沿って二つ

 

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夜の輪郭

 

 朝を迎えてみると、やる気と呼べるものの全てが残らず失せている。どんなに活動的な気分も払暁には消えてしまう。

 静かな夜の中では深く考えられることや、そこから実際に行動にうつせることが、それは沢山あったのに。

 

 たとえ夜間に十分な睡眠をとっていても、起床後すみやかに動き出せたためしがほとんどない。大抵の朝は気分が悪く、頭も重い。

 疑問に思って調べてみれば、人間はいわゆる生活習慣とは別に、それぞれの遺伝子によって活動しやすい時間帯とそうでない時間帯が異なっていると推測できるのだそうだ。俗にいう朝型、夜型。また全体的には、年齢を重ねるごとに朝型へ変化していく傾向もあるらしい。

 

 なるほど遺伝子か、と思いを巡らす。

 存在を知ってはいても、自分のものを見たことなどない二重の螺旋。ねじれた梯子。

 それが己の細胞の核にしまわれているなんて、なんだか雑多なおもちゃ箱を連想させられた。幼いころは固定電話のコードにも似たゴム製のぐるぐるを、たまに伸ばしたり振り回したりして遊んでいたのを憶えている。

 

 夜に起きていようとする遺伝子。

 もしも私が大昔に陸のどこかで生まれていたら、夜通し、焚き火の番でもしていたんだろうか。集団の中で、そういった役割を与えられていたのかも。そんな荒唐無稽な場面が自然と浮かぶくらい「夜」が身体になじんでいて、いまさら変えられそうにない。

 

 想像をしてみようか?

 

  完全に陽が落ちる少し前に起き出して、洞窟の奥から入り口の火のそばまで行くのだ。そこでは人々が昼間の狩猟や釣りの成果を集め、処理をしているから、私も食事の分け前をもらう。

 地平線に太陽が削られて小さくなるのを眺めるうちに、意識ははっきりと覚醒していった。仕事は他の皆が眠りの世界に旅立ってからはじまる。暗闇の中で膝を抱えて焚き火を見守り、適切な規模のまま、絶えないように保つ役目を果たす。危険な動物が寄ってきていないか注意する。

 生まれた時代と場所が変われば、そういう日があったかもしれない、と。

 

 私は夜のみならず、起きているあいだはずっと色々なことを考えているけれど、いちばん思索がはかどるのはやはり深更だ。

 その、理由を探ってみたくなる。光なのか、音なのか、あるいは単純に時間帯なのか。

 もちろんどれもが相互に関係した要素なのは分かる。午後の燦然とした陽光の下ではむしろ眠りたくなってしまうし、周囲の生活音が著しく少なくなる夜半のほうが何かに集中しやすい。

 

 個人的には夜そのものが持っている根本的な性質、すなわち闇の存在が、自分に影響を及ぼしているのではないかと思う。

 

 太陽が丘の向こうに隠れれば、にわかに世界の輪郭は暗がりに溶けて曖昧になる。色も形も、光があるからこそ視覚で認識できるものだから。特に夕暮れには物と物、人と人との境目がぼやけてしまい、一体どちらがどちらなのだか判別するのが難しい。

 だからこそ古くからある「誰そ彼」という表現の妙が心に沁みる。

 

 そして表面上の形相が曖昧になる頃に思索をはじめると、反比例するように、自我の輪郭は際立ってくるのだ。静けさの中で感覚が研ぎ澄まされて。それゆえ、夜は考えごとに向く。

 完全な暗闇を用心深く進み、ついに焚き火のそばまで辿り着くとようやく己の姿が見えるようになり、炎に手をかざせば体の大きさが認識できるのと、同じこと。

 

 私は夜に棲んで、気の済むまでいつまでも静かに火を見つめていたい。

 

 もう遺伝子の紡ぐ性質の紋様がこんな具合なのだから。

 朝には何もやる気がしないというのも、まったく不自然な部分などなく、道理だった。

 

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

記憶の中の火

 

 絶え間なく、はためく衣みたいに揺れている炎は、抱えた膝の向こうからでも頬をそっと撫でてくる。熱源からある程度は遠い場所にいるのに、ほんとうにすぐ近くで薪が燃えているような気がする。それこそ、睫毛も焦げそうなくらいの距離に、火の塊があるのだと錯覚してしまうほど。

 わずかな隙間を残して軽く閉ざした、ストーブの扉の向こう側で、ぱきぱきと何かが爆ぜる音がしていた。

 そのとき私は黒い革張りのソファの上にいた。眠気でうるむ目を瞬かせて、ぼんやりと人間の背中、そこに描かれた幾何学的なセーターの模様を何ともなしに眺めていた。

 

 ◇      ◇      ◇

 

 薪が燃えるといえば以下の話がいつも脳裏に浮かぶ。

 グリム兄弟の編纂した童話のひとつ《トゥルーデおばさん》を知ったきっかけは、偕成社の本「学年別・新おはなし文庫」のシリーズだった。確か、そのうち1991年に出版された「おばけ・ゆうれい話 二年生」の巻に収録されていたと思う。

 

 好奇心旺盛な少女は、ある日「トゥルーデおばさん」のことを小耳に挟んだ。その家は何やら変わった面白いもので溢れているらしいのだが、両親は悪いことをする人の家だと言って、決して行ってはだめだと念を押してくる。

 だが制止を振り切って、ついに彼女は辿り着いてしまった。

 

 どういうわけかガタガタと震えている少女に対して、家の主・トゥルーデおばさんが、なぜお前は震えているのかと尋ねる。

 少女いわく、ここに来る途中の階段で真っ黒な男を見たと。おばさんは「それは炭を焼く男だよ」と言った。

 少女いわく、真っ青な男も見たと。おばさんは「それは狩りをする男だよ」と言った。

 少女いわく、血のように真っ赤な男も見たと。おばさんは「それは獣を殺す男だよ」と言った。

 最後に少女はこう付け加える。この家の窓から中を覗いたとき、頭がまるで火のように燃えている、恐ろしい悪魔が見えたのだと。

 

 それを聞いたトゥルーデおばさんは「お前は魔女がきちんと化粧をしている姿を見たんだね。お前のことをずっと待っていたんだ。さあ、光をおくれ」と宣言し、おもむろに少女を丸太に変えてしまってから、暖炉の火にくべて「なんとも明るいじゃないか」と呟くのだった。

 

 私は幼稚園児の頃にこれを読んで以来、自分もいつか好奇心に負けて最後には薪にされ、魔女に燃やされるんだという幻想から抜け出せない。きっといつか深い森へ分け入って、彼女の小屋を尋ねてしまうだろう。

 

 ◇      ◇      ◇

 

 そんな昔話に出てくるものではなくとも、火には不思議な魔力がある。特に、暖炉や薪ストーブの中で燃える炎。

 この前に座ったまま、あるいは寝転がったままもう動きたくない、と人間の側に思わせ、そこで紅茶を飲みながら本を読む以外のやる気を根こそぎ奪ってしまう。冬の夜であればなおさら。

 ひとつの記憶の中で今も鮮明に揺らめいているのは、そんな寒い日、晩餐を終えた後の広いリビングルームで「何もしない時間」を過ごしていたときの炎だ。

 

 私はマグカップをテーブルの上に置き、大きなソファから滑り落ちるようにして熱源の近くまで行く。正確にはその手前、ちょうどさっきまで弄っていた火掻き棒をマントルピースの脇に置いて、ストーブの扉を閉めた人間のそばへ。

 仕事をしたり、料理をしたり、こうして火の番をしたりと、何かに取り組んでいる誰かの姿は愛おしい。

 かがんで、セーターに覆われた広い背中に顔を埋めると、編み目から灰と煙の香りがするのがとても好ましかった。

 こちらの皮膚を刺激するごわごわとしたウールの繊維からは、膝をついた床に広がっている毛足の長い絨毯が持つのとは正反対の感触が、対照的な二つのもののお手本みたいに伝わってくる。

 悪戯をしたくなって体重をかけ、耳のうしろには息を吹きかけた。

 相手が仕方なさそうな声音で笑えば、身体の振動が直に感じられるのが嬉しくて、回した腕に込めた力をわずかに強くする。その振り向きざまに軽くついばんだ唇は、しばらくストーブの炎に照らされていた分じわりと温かく、けれど内側は少しだけひんやりしていた。

 おそらくは私と違い、直前にビールを飲んでいたせいだろう。独特の苦味はアルコールだ。笑い声が漏れる。そのひとの、少しがたついた前歯の歯並びを、舌先でそっとなぞるのが好きだった。

 

 眠く重たい瞼をどうにか持ち上げて開く。

 至近距離で眺める、ぼやけた相手の顔の側面を、炎の影が非現実的にゆらゆらとなめている。

 

 それからソファに並んで悲しい筋書きの短い映画を観た。他には何もする気のしない怠惰な時間は、行動による充実と無縁であればあるほどに、いっそう心を満たすものだった。美しい思い出だ。

 

 こういう記憶の中にある火は、年月が経過しても潰えることがない。

 保持者である私が、その温度をすっかり忘れてしまうまでは。