自分が自分をじっ……と見ている。
四六時中、いつでも。
たまに、何もしないでぼんやり過ごすのがわりと好きだった。文字通りに何もしないこと。
例えば休日の昼ごろ、遅い時間に目が覚めても布団から出ないで、カーテンの隙間から外の明るさを感じつつ、枕に頭を預けてもういちど微睡むような行為が。
そこには安息がある。
素足に触れる毛布の感触や、水飴を垂らしたみたいにどろどろ滲んでいく意識がただ、心地よい。扉の鍵は閉めているから誰も入ってこない、だからこの身は誰かと会話したり、外を警戒したりする必要と心労からとても遠い。
手も足も頭も働かせなくてよい。
そして眠り、意識を失う瞬間は何も考えなくていいのだ。
胸中は凪いで、安らぎを感じ、どこまでも穏やかになる。
考えなくてもいいとは、即ちそういうこと。
何もしない。
すなわち、何も考えない。ぼうっとしているだけ。だから憂いも悲しみもない。
周囲の物事を真面目に考え始めると、睡眠から覚醒へ意識が浮上した瞬間に結構な苦しみが始まるから、避ける。
もはや永劫にその楽な状態でいたくなる。
しかしそこで発生する問題は、なら「何もしないでぼんやり過ごしている自分のことを好きだと思えるのかどうか」で、もちろん答えは「否」になる。
前述したように、いつも他ならぬ私が私自身をじっと見ている。
見て、そんな無の状態の自分を眺めているのは嫌だ、と言う。生きているのに何もしないなんてつまらない。あまりに退屈で、暇で、死にそうだと。もとより行動はともかく、思考まで止めているというのなら、それは死んでいる状態と一体何が違うというのだろう?
上の問いから生まれる葛藤が非常に厄介なのだった。あらゆる苦悩がここに帰結する、と言っても嘘ではない。
普段から、もう一人の自分と問答をしている。
毎日欠かさず。
起床してから再び眠りに落ちるまで質問は中断されず、何かをするたびに「私はどうしてこの行動を選択しているのか」「いま直面しているあの問題について、どう考えているのか」と絶え間なく問われ続ける。
自分自身から発される「なぜ?」「どう?」に対しての「わからない」「まだ、わからない」「もうすぐわかりそう」「多分、これから先も永劫にわからない」「昔ならわかったかも」「それに関しては保留」「保留」「保留」が蓄積して、いささか己の手に負えない……とは大分前から思っている。
自分のことであるのにもかかわらず。
これがとても、疲れる。
物事をしたり考えたりするのは重労働で、何もしない、考えない、を選択すればそこから逃げられた。
思考を放棄するのは、穏やかな幸福。
それなのに自分が自分をきちんと見ているから、穏やかな幸福に浸っている自分を認識した瞬間に、私は幸福ではなくなるのだ。
波風の立たない静かな世界に閉じこもっていたい願望がある。一方、その「こうしていたい」欲求が、人間として生まれ、生き続けている以上は「こうなりたい」と想像する状態、きちんと考えて行動に移す理想の姿に接続されていない。
なりたい自分になれない、理想を追おうとしないのなら、まったく生きている意味がない。
自分自身に対してどうなりたいか、まず聞く。現状がそこから遠ければ、できるだけ近づけるようにする……の繰り返しが大切で、この反復が鈍ると死んでいるのと同じになってしまう。
他人がどう思うのかはどうでもよく、ただ私自身が、私に対してそう判断している。
常に穏やかな気持ちでいられないのはそれなりにつらい。
しかし安寧を求めると、無になるしかなくなる。
結局、思考するのは難儀だが、だからといって思考を放棄した先には精神的な死、ひいては存在そのものの死しか待っていないのだった。
何もせずに生きるというのは死んでいるのと同じだからだ。
それゆえ、私は何もせず、何も考えないようにしている時の自分、視界に入るその姿を、好きにはなれないんだろう。
温かく優しいだけの場所に居続けると、虚しさで心が死ぬ。
……振り返れば、こういう部分を見抜かれていたのかと今更ながら思う。
昔は人生を通して、自我の根幹にかかわる、実存を揺るがすほどの問いに何度も直面して苦しいのが嫌だった。できるだけ穏やかな場所に居たかった、だからもう外の世界はいい、要らない、静かに暮らしたいとかつて誰かに告げた。
決して嘘ではなかったのに、君の本当の望みがそれなのか、と返されて、本当に苛立ったのを思い出す。
理想を押し付けられた気がした。どんなに近くても他人の君が、私の願望を勝手に決めようとするなと胸の中で怒った。静かなところに居たいって、本心から言ってるんだよ。
でもきっと、相手は私の根本的な性質をなんとなくわかっていたからそう言ったのだ。
物事を考える行為によって苦しみを感じるなら、もはやそれは必要なこと。
思考と行動によって感じる諸々をつらいと思っても、理想の姿であろうとする心の動きがなければ私は幸福の片鱗すらも感じない。反対に、無になる方のやり方で幸福を得て、自分という存在をみすみす殺してしまうのは、全然私の望みなどではなかった。
たとえ苦しくてもね。