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すべてがどうでもいいと感じられる時:個人的な鬱と過眠の関係について

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 いろいろと言葉を変えて検索してみましたが、自分と似た症状の方が書いた記事はあまり引っかからなかったので、記録しておきます。

 

 自分の人生や存在自体に何の意味も価値も見いだせないとき、それでとても苦しいとき、けれど状況を好転させようと懸命に努力しているところへ「考え方さえ変えれば楽になれる」「何かに夢中になろう」なんて言われてもまったく説得力はありませんよね。どう足掻いてもできずに困っているのだから。

 正直、そういった記事に出会ってしまうと腹立たしいなと思います。

 しょせんは他人事だと捉えているのに、分かりもしない問題にあえて言及しているという感じがひどく鼻について。ふと目にするたび、こいつをどうにかしてやりたいと血が沸き立ってしまうのですが、私が使うことを選んだのは拳ではなく言葉です。

 だからこそ当事者として、実際にこれを書いている今も悩んでいる身として、自分の状態がどんなものなのかを改めて認識してみようと思います。

 

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前提となるもの(過去記事):

 

 簡単に説明しますと、私が診断されている気分循環性障害(気分循環症)とは、双極性障害のⅡ型とも共通点の多い精神的な疾患です。Ⅰ型の程度まではいかない鬱状態と躁状態が、短期間で交互に入れ替わる……そんな状態が数年以上にわたって継続しているという特徴があります。

 以下、主に鬱のときの心の状態と過眠について述べることにしました。

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 

 それは定期的にやってくる。絶対に、避けることはできない。

 

 どれほど素晴らしい場所にいようと、信頼できる人間たちと一緒にいようと、まったく関係ない。客観的に見て幸福そうか不幸そうかなど、置かれている状況の良し悪しも問われない。

 特に問題もなく日々を送っている最中に、あるいは嬉しい出来事があって顔を綻ばせた次の瞬間に、どうしてか突然とんでもない災害と絶望に見舞われるのだ。

 

 症状は、なんとなく動くのが億劫だったり、好きなことに没頭している感覚がフッと消えたりするところからはじまる。何かがおかしいと気づいた頃にはもうだいぶ進行していて、あっという間に心のすべてをずたずたにしていくわけ。鬱と無気力が。

 あとに残るのは原型をとどめない瓦礫ばかり。こうなる前の自分がどんな人間だったか、また一体どんなことをしていたのかも、ぜんぜん分からなくなっている。

 手帳にある記録を見返しては、どうしてこんなものに夢中になれたのだろうと首をかしげ、読みかけの本や書きかけの文章を前にして、途方に暮れてしまう。長期的な目標のためにコツコツ頑張っていたことも、もはやそれを続ける意義を行為のなかに見出せなくて、何もしたくなくなる独特の感じ。

 

 これほどの虚しさを抱えてまで生きていく理由が、意味が、分からない。

 もはや、すべてがどうでもいいと思う。

 

 結果、仕事のある日は出社して(絶えず「こんなにも苦しいのはなぜなのだろう」という声を脳内で聞きながら)業務をこなし、帰ってきてすぐさま寝る。ひどいのは休日だ。休みなのだから、家にいるなり出掛けるなりして好きに過ごせばいいのだが、布団から起き上がるのすら難しい。

 個人的に、鬱に入り始めたときほど焦りを感じる状態はなく、とにかくここから抜け出したいとの一心で懸命にできることを探す。しかし前に述べたように、これに関しては「何をどう足掻いても無駄」なのだ。それが鬱というものの性質なので。

 文章を綴る気にも、本を読む気にも、映画を観る気にも、近代遺産の写真を撮りに行く気にも、料理をする気にも、誰かに会う気にもなれず、そんな状態に陥っている自分のことが許せず、横になってひたすらに思考をしている。

 どうしたら良いのかわからない。一体何をどうすれば、元気だった頃に戻れるのかが分からない。

 

 分からないから考える。行動を起こそうにも指一本動かせないから布団のなかでさらに考える。

 精神状態も体調もどんどん悪化していくばかりだ。つらい、怖い、苦しい、救われたい、解放されたい、つらい、怖い、苦しい、そうして目を閉じていると、さっきまで眠くもなかったのに意識がぼんやりとし始め、いつのまにか眠りに落ちている。

 それは、よく鬱の症状として例に挙げられている異様な眠気とは、また違う種類のもののようだった。

 

 やがてあるとき気がついたのだ。そうして眠りに落ちる直前と、目覚めた瞬間から数分のあいだだけは、どこか「無」に近いような楽な気持ちを感じられるのだ、と。

 肝心の眠っている最中には、高頻度で恐ろしい夢を見ているから駄目だった。あくまでも眠りに落ちる直前と、目覚めた瞬間から数分のあいだ。この二種類の時間を経験しているときだけ、私は安らかであることができる。苦しみに喘がなくてもよくなる。

 

 そこから、気分のサイクルが鬱に突入した際の「過眠癖」がついた。

 

 はじめは決して眠いわけではないのだ。ただ、何もできずに横たわって瞼を閉じ、逃れられない自責の念に締め上げられていると、いつのまにか無が訪れて楽になり眠っている。それから目を覚ますとき、ぼんやりとした視界のまま動かずにいるととても穏やか。

 だがそれも長続きはせず、意識が覚醒し続けているとまた自動的に思考が始まり、つらい、怖い、苦しい、救われたい、解放されたい、の無間地獄が始まるので、私は逃れるように再び瞼を閉じる。そうするとにわかにすべてが遠い場所へと去って、安らかな気持ちで眠ることができる。

 これを休みの日の一日中、まるで生ける屍みたいに、ずっと繰り返しているときがあるのだ。あるいは疑似的な死を体験しようとしているのかもしれないが。とにかく、それ以外のことができない。自動的に眠って、起きそうになったら、また眠ったままでいようとする。

 

 まだ元気だったときの、好きなことにどこまでも夢中になれていた状態に戻りたい。

 自然と楽しいことを見つけられていた頃に戻りたい。

 これからあんなこともしてみたいと、未来に何らかの目標や希望、意味や価値を見出せていた頃に戻りたい。

 

 朦朧とする意識でうっすらとそう願いながら眠りに落ち、そのあと完全に目覚めてしまう前に、もう一度眠るのを繰り返す。傍から見れば、ただ長い時間眠り続けているだけのように見えるだろう。まったく動いていないのだから。

 

 以上が一個人の身にあらわれる、鬱と過眠の症状、それらの関係である。

 

 

ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー

 

 こういった症状が発現している方を見かけたことがないので、ひとつの例として記事にしてみました。もしも似ている方がいましたらぜひ教えてくださると嬉しいです。

 

 最近は元気な時期も長かったのですが、まるでその反動のようにやってきた鬱による思考と行動の変調が著しくて、すっかり参りました。自分の存在や取り組んでいることのすべてに価値を感じられませんし、何をしていても心が動く瞬間がありません。

 けれど経験からして、数週間もしないうちにまた躁状態がやってくるのだと思います。そうして今度は睡眠時間が減り、何か新しく楽しいことを考えながら、常に動き続けている人間に変わるのでしょう。もはや気分というよりも人格ごと入れ替わる。

 それが気分循環症と共にあるということなのです。

 

 

 最近は鬱状態のとき、もしも母が亡くなったら私も一緒に死のうかと考えるようになりました。これからの人生がとても心細いために。

 ずっと見方でいてくれ、自分という存在に価値を見出してくれた肉親がいなくなったらきっと悲しいですし、その後、困ったことが起きたり苦しい状態に置かれたりしたらそれこそ何も感じられなくなると思うので。

 私がこの世界にいてくれて嬉しい、と言ってくれた誰かが傍から消えてしまったら、それはもう潮時なのだと実感する機会が増えました。

 これから頑張り続けた先に評価される展望も、似た感覚を持つ人間と巡り合える確信もないので、普通に苦しいです。自分自身がどうでもいい存在であり、まったくの無価値であることが。私が生きていても死んでいても、別段何も変わらないのであろう事実が。それだけですね。

 

 

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