小さな火種から炎が徐々に立ち上がり、ゆるやかに(かつ、時にはこちらが考えるよりもずっと速く)縦横に広がって、揺らめく姿。火は半透明に見える。幾重ものごく薄い布でできた、衣服にも。
それに包まれて燃える薪が小さく爆ぜる音。
生まれる高い温度と、煙の匂い。
私が焚き火に惹かれるようになったのは、幼い頃から少なくとも1年に1度、必ずキャンプに連れて行かれていた経験とけっして無縁ではない。
キャンプ場では、各々の滞在者に割り当てられた「サイト」にテントを張る。その意味を知らなかったから、何年も後になってパソコンに触れるようになったとき、インターネット上に存在するホームページが「ウェブサイト」と呼ばれているのを知って、首を傾げた。
まだ小さかった私にとって「サイト」というのは、キャンプ場で自分たちが使う、特定の区画を表すためだけの言葉だったのだ。
そこの端に、遠路を運転してきた車がタイヤを休めたら、今度は後部座席で寝ていた私も労働を開始しなければならない。扉を開けて、降車して、荷物を下ろす。振り返ればこのとき、自宅の近辺や、普段の行動範囲からは遠く離れた場所の空気を意識して、はじめに思い切り吸い込むのが好きだった。
探しても見つからない心のどこかの部屋に、いつもとは違う場所に行ってみたいという願望が、自分とはまるで別の生き物の形をとって棲んでいる。それが、定期的に食事をするみたいな行為だった。着いたばかりの、緑多き土地の空気を吸うのは。
金属の棒を伸ばし、地面に突き刺して固定したら、特別な布をかける。
そうして端から伸びる太い紐を引いて、「ペグ」と名前の付いた釘みたいなものを使い、所定の場所にハンマーで打ち込むのが私の仕事だった。みるみるうちにテントは形になる。さっきまで何もなかった空間が区切られることで、いや、単に区切られただけなのに、傍目にもその役割が察せられるようになる。
ここは寝る場所で、ここは食べる場所、と。
不思議だった。家みたいなものがそうして構築されていく様子が。
空間が完成する頃にはきちんと火を使う領域もできている。
私は働いた後、明るいうちは食べたり飲んだり、あるいは背もたれのない横長の椅子を占領して、眠ったりしていた。陽が落ちてからキャンプ場に備わっているお風呂へ行って、サイトに帰ってきてから「本当の時間」は始まる。
すなわち、焚き火の脇に腰掛けて好きな本を読む時間。
キャンプ場に持っていた回数が最も多かったのが、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」で、それには理由があった。というのも、おそらくは定期的にキャンプへ連れて行かれるようになった習慣の初めの頃、ある山に入る直前、ふもとの本屋で選んで買った経緯から、自分の中で「キャンプに持っていくならこれ」という奇妙な図式ができあがっていたらしい。
でなければ、もっと軽くて小さな文庫本を選んでいたに違いないのだから。
岩波書店が出版したハードカバーの「はてしない物語」はページ数があり、装丁も立派。あかがね色の布が張られた表面に、互いの尾を噛む2匹の蛇が刻んである。本文は赤茶と緑の2色刷り。そういう仕様になっているわけは、実際におはなしを読めば、きちんと分かる。
食事をするテントの中に座って、マグカップホルダーのついたチェアに深く腰掛け、火のそばでこれを読むのが至福といえた。金網の上にやかんがあるから、望むだけココアやお茶も淹れられる。串を使って手慰みにマシュマロも炙れた。
光沢のある布張りの本の手触りは稀有だ。撫でたときの、細かくなめらかな編み目の並び。この世のものではない生き物の肌のよう。橙色の炎に照らされると、その光をとらえて反射する。ちらちら。焚き火が揺らぐと影も動き、不意に、ページが綴じられている谷間に像が生まれる。物語の中の彼らはすぐそこに居る。
声も、足音も、息づかいも……火の近くにいれば、これほどまでに近くなるのだった。
うす暗いと、周囲にある物事の輪郭はいくらか曖昧になる分、頭の中にある考えや、受け取った文章から広がる世界は驚くほど鮮やかに変わる。
あまりに明るい場所は空想や思索に向かない。だから普段の生活の中で、寝よう、と電気を消して寝転がってしばらくすると何かが湧き上がり、結局身体を起こしてメモを取る羽目になるのと似ている。
別段、後ろめたいことが好きなのではない。単純に考え事をしたいからうす暗い場所にいたくなる。けれど、おおっぴらにならない、という要素に関してのみいえば、秘された行動も良いものだ。隠されているから価値のあるものもある。
焚き火のそばで物語に耽溺していると、それが如実に分かった。
私にとってキャンプの思い出は上に述べたようなものであり、火に愛着を抱くきっかけと、比較的暗い場所にいると落ち着いて何かを考えやすい自分の性格の、一端を形作る要因となった習慣のひとつでもある。
やがてある程度年齢を重ねて、一時期、寒冷な気候の国に住む経験をしてからは、同じ火の仲間でも今度は「暖炉」が大好きになった。
けれどそれは別の物語。
だから、いつかまた、別のときにはなすことにしよう。
……「はてしない物語」の作中では、場面転換の際に幾度かこのような言い回しが使われていたから、こうして借りてきた。
焚き火のそばに物語があるから、物語を読むときはいつも、頭の片隅で小さな炎が揺れている。
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はてなブログ 今週のお題「キャンプ」