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彷徨する自由帖

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ウクラン ポロンノ ウパシ アシ(ukuran poronno upas as)

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「昨晩はいっぱい雪が降ったけど、今日はいい天気だね」

 

"ウクラン ポロンノ ウパシ アシ

コロカイ タント シリ ピリカ"

"ukuran poronno upas as

korkay tanto sir pirka"

 

 ukuran:昨日の晩、ゆうべ

 poronno:たくさん

 upas as:雪(upas)が降る

 korkay:けれども

 tanto:今日

 sir:地、山、目に見える周囲の様子、天気や気象など

 pirka:よい、素晴らしい

 

参考:「令和4年度『アイヌ語ラジオ講座』テキスト Vol.1」公益財団法人アイヌ民族文化財団

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 2022年12月中旬、15日からだいたい1週間程度の期間。

 この時期には珍しい、異例の寒波と大雪に見舞われていたのが北海道南部の函館だった。現地は通常なら師走半ばの降雪量が少ないとされる地域で、それにもかかわらず、平年の3倍を超えるほどの積雪が観測された。

 函館における異常な雪は、動きの遅い低気圧や、西高東低の冬型気圧配置、風の向き、いろいろな要因で引き起こされる可能性のある天候らしい。珍しいが、過去の記録を見てみると、実はここでの大雪観測記録は12月に集中しているのだと分かった。

 

 

 カタカナで「コークス」と書かれた袋から数個の塊が転がり出て、ここから少し離れた地面、線路が敷かれた辺りの白く凍った一角に落とされた。目を凝らすと、そこで火が燃えているのが分かる。おそらく雪を溶かしているのだろう。

 岩石にも似たコークスの塊を棒でつつく、作業着を着た数人の足下に炎が見え隠れして、周囲を覆っている色彩の冷たさと橙色が対比され面白かった。知らない国の焚き火の風習のようにも思えた。普段暮らしている場所から遠く離れた土地に抱く感想として、あながち的外れなわけでもない。家や自分の部屋から1歩でも外に出れば、そこはまさしく外国と同じようなものであるのだし。

 私は函館市電の車両が来るのをホームで待っている。

 鳴き声が聞こえて頭上を仰いだら、時計の下のところ、カラスが羽を休めているすぐそばに、ごく細い氷柱(つらら)が垂れているのも見つけた。細いからといってその下を歩く危険がなくなるわけではない。根元が折れればたちまち眼下のものを突き刺す、という明確な強い意志、物体からの純粋な殺気が先端に込められているのを感じて、心持ち肩をすくめながら壁際に寄って路面電車を待った。

 時刻表に記載された予定を過ぎても車両は来ない。

 どうやら、積もった雪の影響で数分遅延しているようだった。一昨日は遅延どころか脱線が発生していたので、もはや動いているだけで十分な気がする。現場の苦労が偲ばれる。

 

 

 12月19日に羽田国際空港を出るとき、夜から庄内に向かうはずだった飛行機の便が「天候不良で欠航」になっていたのを見かけて、やむを得ず予定を変更した人たちや対応に追われる航空会社の人たちに深い同情を寄せた。この上なく大変だと思う。昨晩も吹雪だった函館がきれいに晴れていたのは、とても運が良かったと安堵しつつ。

 空港の電光板に表示された、欠航便を示す表示 [cancelled] の目立つ赤色。

 冬の時期になると、降雪予報のレーダー図でいつもかなり濃い色がついている、山形県や新潟県をはじめとした日本海側の地域を思う。地に蔓延る人間に対して雪が非常に厳しい場所である。私の祖母は新潟、阿賀野川沿いにあった村の出身で、この手の生活苦労話には枚挙にいとまがない。それでも、どれほど降雪や積雪の恐ろしさを念入りに聞かされていても、あの一面の白銀を目の当たりにするとただ美しいと感じてしまう。

 なぜかというと、そこに住んでいない人間にとっては文字通りの「幻」だからだ。実際に存在する事象としてではなく、脳裏にだけ焼き付けられた、気が付いたら積もっていて永久に溶けない柔らかな雪の幻影。紙や画布の上に描かれている。文字として、また色彩として。

 額縁に囲まれたそれを、ずっと見ている気がする。物心ついたときから。

 

 

 

 

 表面がすっかり覆われた街を眺めていると、これが何かの生き物だと言われても信じてしまいそうになる。事物が呑み込まれている状態に、元凶である白い塊の思惑までも感じさせられる。昨日降った雪からは海と波打ち際の泡を連想した。塊に足を取られ、滑りそうになりながら坂道を進んだり、戻ったり、脇の路地に逸れたりして。

 もしも転んで起き上がれなかったら、そのまま凍り雪原の藻屑となるだろう。

 気温が氷点下の世界では、向かい風が吹くと皮膚が強く痛み、布や毛皮で隠されていない耳も指先も冷気で引き千切られそうになる。けれど、ふとした瞬間にぴたりと風がやむとき、あまりにも呼吸がしやすいのに驚かされる。泥濘の中を進んだ先で、唐突に、どこまでも澄んだ湧き水に出会ったときのような。

 次に頭上から太陽が照り、視界の下半分が一斉に光を放って輝いた。

 これ、これ。これを味わうのがやめられない。過程がどんなにつらくても、この一瞬のためだけになら、何時間だって歩けそうな気がしてくるから不可解で恐ろしくて仕方ない。肩にコートの重みがかかっている。寒さから身を守るのと同時に、この重量によって、自分を固く地面に繋ぎとめようとしてくる上着の。

 

 

 雪は単純に恐ろしいのではなくて、溶け出す前の状態が美しいからこそ、罠の性質を帯びてなお恐ろしい。人間を引き寄せるが故に。

 害になるだけならばともかく、喜びも同時に与えてくるから逃れられない。

 今年もまた同じように魂が囚われた。これから春になっても、夏になっても、心の欠片のひとつは昨晩の雪で変貌した「果て遠き風景」の中を彷徨い、そこでは永劫に雪も氷も溶ける日は来ない。

 歴史的建造物が集まる地区の片隅で、もとは階段だったのであろう建物の一部分が、段差の完全に消滅した滑り台と化していた。もしかしたら小さなソリを持って来るべきだったのかもしれない。

 

 

 再び曇り始めた空が降らす粉雪と、視界を埋めだした吹雪の幕の向こうに、たくさんの犬たちが真っ赤なソリを引きこちらへやってくる幻影が見える。不運だった飛行機の便とは違って「運休(cancelled)」の文字はどこにも見えない。燃えるように赤いソリ。

 あれに乗ろう。

 それで津軽海峡を越えて、東京都を横切って、鹿児島も沖縄も通過して南極に至り、地球を1周したら、最後にまた函館まで戻ってくる。

 

 

 

 旭川の蛾大量発生(2022年夏季):