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彷徨する自由帖

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心的抑止力を弱める虚無感の効能について:「どうでもいい」って思えるから動けるとき、がある

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 本来なら臆したり、面倒に思ったりして実行できないようなことでも、あえて挑戦できるような瞬間が人生には少なからずある。それは一体、どんな心境のなせる業なんだろうかと考えていた。

 もちろんひとつではないのだけれど、私の場合はだいたいこれ。試みが全部裏目に出てうまくいかないことが多く、自分自身の未来や世の行く末に対して、希望などの明るい展望をこれといって見出せないでいるとき。暗い気分というより、まったくの空白、虚無。

 そういう、どちらかというと諦念を抱いて投げやりな意識を持っている状態の方が、満たされて元気なときよりもずっと捨て身になれるというか、「どうせなら色々やってみようかな」と動く気になれる傾向がある。

 いつかはやろう、とぼんやり想定していたことを、次の日にいきなりやってみるとか。遠方への旅行でも、高額の買い物でも、さすがにそれは……と普通なら思うようなことでも。あるいは、久しぶりに話したかった誰かと、手当たり次第に連絡を取る。積んでいた本を片端から読み始める。

 虚無が、遠回しに何らかの行動を促してくるとき。

 それは一見すると矛盾しているようで、不具合っぽくて、興味深い現象かもしれない。もちろん、そのとき虚しさを覚えている私自身の感覚としては、別に何も面白くないのだけれど……。ただ、それに対処したいと真摯に願っているだけで。

 

 行動を促される要因として考えられるのは、虚無感による「しがらみの欠如」、だと思われる。

 要するに、もう全部どうでもいいかな、と思うから、却って心にかかる抑止力が弱まるのだろう。今はお金を貯めておいた方がいいだろう、とか、誰かに不用意に話しかけて嫌われたらどうしようかな、とか、そういう心配たちがことごとくいなくなる。

 なぜならこれといった展望がそもそもないため、訪れるのかもわからない今後の人生の出来事や、いわゆる老後を考える必要がない。人間関係についても、ひょっとしたら明日にはすっかり縁が切れてしまうかもしれないのに、好かれるか嫌われるかを気にしてはいられない。会いたい人には会って、言いたいことは言っておこうと思う。

 しがらみがあるとこうはいかない。たとえば今後の職場での立場や、体面などを気にして、旅行に行くための休みがなかなか取れない人がいたとする。その人は自分のことや周囲の世界のことをどうでもいいとは思っていないから、自制心が働いているわけ。

 虚無は、そういうものを薄れさせる。

 

 自分のこと、周囲のこと、世界のことがすっかりどうでもいいような気がしてきて、途方に暮れる感覚。諦念と、虚無。はじめにこれを感じると、本当に何もする気がなくなる。やがてすっかり煮詰まって、無が極まると、むしろ今なら何でもできてしまうような気がしてくる。

 映画などで、誰かが人質を盾に脅される場面を、多くの人が見たことがあるだろう。通常時に作用している自制心……いわば心的な抑止力は、もしかしたらあれに近いのではないか。

 この場合は誰かが、というよりも世界の側が、私に対して「動くな! おとなしくしろ! こいつらがどうなってもいいのか?」と、いくつかの要素を盾にして何かを抑えようとしてくるんだけど、こちらとしては「別にどうなってもいいんですよ」と返すしかない。

 うーん、ごめんなさい、これまでだったら相当気に病んでいたんだろうけど、もう色々とどうでもよくなったんです。これまでの人生、何かを思い煩ったところで特に良いことはなかったし、頑張っても本当に欲しいものは手に入らないと経験から理解したので、こんなにも虚無なんだよ。

 そういう心境に、それが機能すると思うの? と、むしろ聞きたいぐらいだ。

 

 これから先、生きていても何にもならないかもしれない。

 あるいはとんでもない不運で明日、命を落としてしまうかもしれない。

 だから「いつかそのうち」やろうと考えていたことを、できるだけ「すぐ」に実行する心境になる。まぁどうせなら……と思う。そこに、将来どうしようとか、うっかりしたら元の生活に戻れなくなってしまうかも、などの懸念が入り込む余地はない。

 現状、望みが叶っていなくて虚無なら、行動して破滅しても待っているのは虚無なのだから同じだもの。何も変わらない。ただ、何か行動に移しさえすれば、万に一つでも求めていたものの片鱗に触れられる可能性が、なくもない。

 これは期待ではなく、本当に投げやりな言葉だ。本当にその可能性があるとも別に思えないが、黙って座っていたところで何にもならない状況は変化しない、じゃあちょっと立ち上がったって差し支えないだろう、くらいの温度感。

 

 大昔の私は、事故や事件などのトラブルに遭遇するのが怖くて、自分ではあまり遠くまで行きたがらなかった。一方、現在はじっとしていることの圧倒的な虚しさと退屈がその恐怖を上回っているので、出かけられる。

 そして多分、飽きてきているのだろうと思う。完全ではないけれど、限りなく自由な人生に。

 もともとは波風の一切ない静かなところで、本を読んだり眠ったりしているのが好きなのだ。仕事をしていない時間は。それと同時に、死ぬまでそうしているつもりなのかと自分自身に問いかけると、あまりの虚無感にすべての他の感情が遠ざかり、これでは死んでいるのと全然変わらないではないかと動揺する。

 脳裏に描く理想の生活があるのだが、それは私の意志だけでは実現できない性質のもので、過去に実現しようと頑張った試みは無駄に終わったため、理想だけを目標に生きるのは難しい。

 そうなると、結局のところ最後に残り、あらゆる行動の原動力になるのが奇妙なことに「虚無」なのだった。

 

 横になって天井を眺めると、色々とどうでもいいな、と反射的に思う。

 途端に、やりかけだった事柄やまだ着手していない事柄が無数に浮かんできて、どうせ明日死ぬかもしれないのだったらあれをやってみようか、捨て身になって、特に惜しまれるような存在でもなし……と、しばらくしてから身を起こす羽目になる。

 虚無感が、私に行動をさせる。

 

 

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