以下2記事の続き。
喉元を過ぎてしまえば、どんな熱さでも簡単に忘れられる、と一般に言われている。実は本当にその通りで、たとえば12月上旬の時間軸に身を置いたまま、7月下旬の空気を鮮やかに想起しなさいと言われてもまず無理だから、尚更そう思う。
記憶から呼び出せるのは、暑い、蒸す、息苦しい、などの記号化した感覚だけ。感覚そのものは蘇らない。どれほど本物に似ていたとしても。満腹時に空腹の感覚は分からないし、反対の空腹時にも、全く同じ現象が起こるのと同様に。
山形県の宝珠山立石寺、通称「山寺」。これは蜃気楼みたいに細部が曖昧な姿をとり、過去の体験の主役ではなく背景として、自分の記憶に残っている。面白いことに、現地で邂逅した山寺の存在自体も、当時の私にとっては蜃気楼によく似たものだったと言える。
訝しげに理由を問われれば、「見えているのに一向に辿り着けないところ」……だと返すほかない。文字通りに、そうだったから。
山寺駅で仙山線の列車から降りると、プラットフォームから山が見える。目を凝らせば緑の下から露出する岩肌に紛れて屋根らしきものも確認でき、なるほどあの場所に行けばいいのかとすぐに判明はするが、辿り着くにはまあまあ骨を折る必要があった。
山門から頂上までの階段の段数は、1000段を超える。
ひとつを取り上げればなんということのない高さでも、急勾配に設けられた無数の階段を淡々と上り続けるだけで、驚くほど簡単に息が上がる。比例するように、足も重たくなっていく。加えて夏の暑さだ。
7月の山寺の緑は美しい。
大小、高低、多種多様な草木がひしめく参道で人間は葉陰の恩恵にあずかれるけれど、湿気だけは如何ともしがたいようで、人間はその海を泳ぐことになる。そういえば、魚を飼った水槽の中に人工の岩を飾る遊びがあるだろう。そんな風にして、縦長の高級な水槽に入れられた気持ち。違うのは、餌も空気もそれほど潤沢にはないという部分。
せわしなく呼吸をする姿はそんな観賞魚というよりも、海から釣り上げられて、死に際まで口をぱくぱくさせる魚の方に似ているのかもしれない。想像するとかわいそうだ。魚は食べるけれど、別に魚のこと切れる瞬間なんて進んで見たくはない。
実際に死にかけているのは魚ではなくて、石段を上っている自分なのだから、これ以上は考えなくてもいいはず。
しかし余裕はない中でも色々な想像を巡らせつつ周囲を見回してみると、そこらじゅうに立てられている灯籠のような柱も水槽の飾りに思えてくるから不思議だった。こういうオブジェの置物、売っている。ペットショップにもホームセンターにも。
そういうものの他には、途中で遭遇した弥陀洞(みだほら)が気になった。
弥陀洞は風雨に削られた岩を利用して、約4.8mの阿弥陀如来の姿に見立てるものであり、その姿をきちんと認識できる人間には福が訪れるとされている。残念ながら私には岩そのものに見え、半立体に彫刻された小屋のような図とそこに刻まれた梵字、その他をただじっと眺めていた。これは楽しかった。
頂上に至るまであんなに苦しく、しばらくは水も受け付けないくらいだったのに、もうすっかり忘れてしまった。服の袖が腕に張りつく感じも、どれほど日差しが疎ましかったのかも。毛糸の靴下で足を温め、マフラーで首を守っている、現在の季節になったら全部。
そもそも何故いきなり、それも神奈川の田舎から弾丸の日帰りで、山寺に来ようと思ったのか。
確か何かの評判を耳にしたからだと記憶している。悪縁を断つのに効果がある縁切り寺なのだと……。でもこれはまことしやかに囁かれているだけの噂であって、実際に寺の側からそのように標榜している事実は、特にない。一体どこから湧いて出た噂なのかは調べてみても分からなかった。
1段ごとに煩悩が滅却されるという石段、それから悪縁切りに効果がある噂。当時の自分は具体的なものではなくて「なんとなく悪い縁が結ばれているなら祓いたいし、その結果また新しく良い事物や人間に邂逅できたらいい」と考えていたのでは。要するに出掛ける口実が欲しかったらしい。
ともかく岩の上の開山堂と納経堂、立石寺の境内でも最も古い建物とほとんど同じ位置に立てたことには、骨を折って訪れた価値を大いに感じた。初めて山形県を観光したのも刺激になって、また新しく本を借りてこようと思った。
下山する際に通った、松尾芭蕉の「おくのほそ道」にゆかりある「せみ塚」。句碑の近くに紫陽花が咲いていたのを振り返る。
ここで耳にした会話がちょっと面白かったのだ。
石段で数人が「松尾芭蕉ってさ、ツレがいたよな」「うん、いた。芭蕉のツレ……」と交わしていた会話。うぅん、それって河合曾良のことじゃない? 名前、本当の彼の名前をどうか思い出してあげてー、と念じたのが、わりと印象的だった。
ちなみに、頂上にある郵便ポストからは、手紙が出せる。