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彷徨する自由帖

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言葉がヒトを残酷にする

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「心を配る」や「心を砕く」って、ちょっとものすごい慣用句だ。

 かなりものすごいことを言っているのにもかかわらず、まあこれは一種の比喩だから、言い回しだから、ということで、わりと頻繁に日常生活の中で使われている。

 でも、考えてもみて。そう簡単に自分の心を切り分けて配ったり、ましてや砕いてみせたりするなんて、生半可な覚悟ではとてもできないでしょう。

 何かを心配することや、周囲のほんの些細な事象にも注意を払うこと。「心を配る」や「心を砕く」の意味内容。それらは元来、とてつもなく大変な行為なのだと、再度実感させられる。

 

 あとは「心を開く」も実におそろしい言葉。本当に怖すぎる。今すぐ、靴を履くのも忘れて、ここからずうっと遠くへ逃げ出したくなるくらいに。

 だって一体……一体全体何を使って心を開く、というのだろう?

 自ら開示する、ならばまだいい。しかし外側からの干渉だったら?

 文脈を排除して言葉面だけを見ると、どちらなのかは皆目わからない。

 たとえば視線や言葉を用いて、誰かの心を開く。皮膚から伝わる温度で心を開く。あるいは爪とか、鍵とか、鋏とか、鉄槌とか、ナイフとか、そういうものを利用して心を開く。切り開き、割り開く。時に優しく、巧みに、相手の了承を得て、もしくは得ずとも強引に行う。

 なんという侵食……蹂躙……あるいは、くらい喜び。


 言葉はいつも「本来であれば到底できるはずのないこと」を、いとも簡単に人にさせようとする。

 そして、結局できてしまう。なぜなら言葉の上でのことだから。

 残酷な話だ。

 だから私は毎日のように、言葉さえあれば、と、言葉さえなければ、の狭間でもがきながら、終わりを知らずに揺れ続けている。無為な振り子、単純に脈拍を刻んでいるだけの怠惰な心臓みたいに。どうしようもない。

 

 言葉。私は言葉が好きである。

 言葉、言語、文字、あるいは意思を伝達するのに発される声(鳴き声、ではない)のたぐい。現在こんな風に、どこの誰でも当たり前みたいにそれらを使っているのがもとより特殊な状況なのだと定期的に考え直したいものだし、たとえそう望まなくたって、結局は考えさせられる。

 そう、事実として、言葉があるせいで嘘も存在する。言葉で誓いは交わされ、行為によって破られる。

 でも、どうしても、好きなのだった。

 だから大切にしたいと望んでいる。言葉に生かされていることを刹那忘れて、また、思い出すたびにそう願うくらいには。

 

 ……以下、余談だが。

 冷酷無慈悲な存在に対して使われる慣用句に「血も涙もない」がある。私はその言い回し、字面が面白く感じて、結構気に入っている。

 およそヒトらしい情(とは一体何なのだろう?)がまったく伺えないような相手にも、ひょっとしたら、血も涙もあるかもしれないではないか。

 そう、問題はそこではない。彼らの血や涙の性質が、私達と同じものとは限らない、という部分こそが重要であるはずで、けれどあたかも血や涙の有無が命運を分けるかのような言い回しになっているから、真剣に受け止めるとなんだか笑えてくる。

 もとより、慣用句というのはそういう種類のものなのかもしれなかった。

 本当に、残酷な言葉の本質を体現しているみたいな存在だな、と、時々思う。