雨下に桜鼠色の壁が映えて、そこを這う草の緑も静かに呼応しているようで、とても綺麗だった。
本当なら、曇った空は全然好かないけれど。
文京区千駄木を歩いていると、大きな邸宅やお屋敷の塀がしばしば目に入る。
それで少し路地が入り組んだ場所に迷い込めば、頭の天辺よりも高い石や竹の塀が、部外者への威圧感をもって迫り来るようにも錯覚されて、やましいことは何もしていないのに恐縮だ。その一枚の後ろ側にどんな素晴らしい邸宅が隠れているのかと、思い切り首を伸ばしているのがばれているからかもしれない。
宮本百合子、高村光太郎、森鴎外。他にも数々の文化人にゆかりあるこの土地には、戦前に建てられ、空襲被害や倒壊を免れて今でも建っている住宅が多くある。
そのうち島薗家住宅は昭和7(1932)年に竣工した個人邸であり、先の5月1日はその一部、和館の部分が解体され無くなる前の最後の公開日となっていた。
目当ての邸宅は、駅から徒歩数分の距離。洋館の入口部分に植物を絡ませるための棚(ラティス、トレリスともいう)があった。外壁上部の連続するレリーフ装飾や、玄関横の窓とも形が揃っているようにも見えて、曲線が目に楽しい。
玄関で靴を脱ぎ、金の帯のような文様が天上下にあしらわれたディーレ(エントランスホール)から内部に入ると、そのすぐの空間が書斎になっている。壁の4面をいずれも大きな面積の本棚が占めていて、医学、哲学、宗教などの分野の書籍が詰まっていた、お医者さんの書斎。
島薗家住宅はもともと、生化学を専門としていた島薗順雄氏とその令室のふたり、新婚夫婦のために建てられた家。
設計は一部が名古屋明治村に移築されている川崎銀行本店や、川崎貯蓄銀行福島出張所を手掛けた矢部又吉によるもので、彼は工手学校(現工学院大学)を卒業してからドイツでも学んだ人物。その影響もあるのか、島薗家住宅にはドイツ建築風の意匠も見ることができる。
書斎の隣、洋館1階の食堂兼居間は家族の生活空間の中心となり、お洒落な照明器具と壁に作りつけの木の食器棚が居心地のよい空間を演出していた。
ディーレの照明と食堂の照明は、実はかつて存在していた島薗順次郎邸から取り外され、ここに付け替えられたもの。この邸宅に住んでいた島薗順雄氏の父、順次郎氏は、ビタミンB1(当時、オリザニンとも)の不足により脚気が引き起こされることを発見したことで著名な人物だった。
ちなみに食器棚の真ん中、時計とすずらんが置いてあるスペースの右側に手を伸ばすと、小さな引き戸が開いている。覗いてみると丸い窓が取り付けられた狭い空間が見える。おそらく、小間使いの方が入室せずとも必要なものをそこから伺い、内部へ渡せるようにするためのものだろう。
丸窓を通り過ぎて廊下を渡れば階段へ続く。和館に併設された洋館はもともと1階建ての平屋だったが、昭和16(1941)年に2階の部分が追加された。
面積の大きく取られた四角い窓から、和館の屋根が見える。さらに向こうにはシュロのような木も。西洋絵画風の柄が施されたクッションは、簡素で心安らぐ洋間に彩りを添えていた。
見どころのひとつは暖炉の上にある縦長のステンドグラス。
地平線を挟んで上が空、下が海の図で、けっして鮮烈ではなくごく淡い色合いのガラスが連なり、徐々に青を濃くしていく。輪郭線はくっきりとしているのに不思議と水彩画を連想させる。また、モチーフとして描かれている戦闘機や軍艦も、他の場所にある近代のステンドグラスではなかなか遭遇することができないもの。
足元がタイル張りの暖炉は奥行きが浅く、洋館に煙突は存在しない。それはこの一角を薪を燃やすためではなく、ガスストーブを設置する場所として利用していたためで、観察すると元栓があるのがわかった。脇の戸棚には剥がれてしまったタイルがしまわれている。
洋間に和室が隣接しているので覗くと、奥のところに仏像があった。
どうやら作りつけの仏壇になっている一角のようで、詳しい由縁は不明であるそうだが、島薗家が大切にしていた仏像を収めるためにわざわざ設えた空間であるらしい。何とも言えない趣がある。お医者さんの家であるから薬師如来系のものかと思えば、特にそうでもないようす。いずれにせよ特別なものであるのは確か。
階段を下りてからもう一度和館の廊下を歩いた。そこはもうすぐ失われてしまう空間だが、家自体はなくならない。それでも日本庭園から眺める洋館の入口が美しく、名残惜しいと感じた。
去り際、邸宅の所有者の方にまた来てくださいと仰っていただいたので、おそらく洋館部分の一般公開はこれからも続けてくださるのだろう。
特に都内で古い邸宅を維持し、管理していくのは実に骨の折れること。現在は有形文化財である島薗家住宅も、その登録にあたっては、所有者の方やNPO法人である「たてもの応援団(文京歴史的建造物の活用を考える会)」の方々の尽力があった。
私がこうして訪問の記録を残しているのは完全に趣味の領域になるけれど、それがきっかけとなってどこかの誰かに建物の名前が知れて、関心を持ってもらえれば、存続の未来に少しでも繋がるかも。
そもそも超個人的なブログなので効果の点では薄いだろうなと思いつつ……。
次回の邸宅公開を心待ちに。