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彷徨する自由帖

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《落下の王国 / The Fall (2006)》- 録画して何度も鑑賞している映画

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 2020年12月8日に地上波の番組「映画天国」内で放送された、落下の王国(2006)。

  原題はThe Fallといい、ターセム・シン氏を監督に据えて制作された、インド・イギリス・アメリカの合作映画だ。

 

 これを放映時に録画して以来、休みの日になると飽かずに繰り返し鑑賞している。何度みてもよい。

 

 石岡瑛子氏の手がけたすばらしい衣装デザイン、CGではなく実際にふさわしいロケ地を探し出して画面に収めた労力、構図に演出など、落下の王国の「映像美」や「芸術性」を賞賛する紹介文が巷には溢れている。私の通っていた高校の、造形概論の授業でも取り上げられていた。

 使用されていた音楽の数々も耳に残り、特にベートーヴェンの「交響曲 第7番 イ長調 作品92/第2楽章」は、しばらく頭から離れなくなるだろう。

 

 そんな上記の点も卓越していて印象的だったのだが、個人的には全編をまっすぐに貫く純度の高いストーリーにこそ心を打たれたし、メインの登場人物2人が交わす眼差しの温度が終盤にかけて徐々に変わっていくのを見守っていると涙が止まらない。

 とても美しい映画なのだ。

 決して、その視覚的な美のみにとどまらず。

 

 ……例の曲が流れる序盤。

 モノクロ画面の中で展開するのは、ロイが足にひどい怪我を負った際の撮影現場であり、確かに起こった「現実」の出来事のはず。

 それなのに、ロープで高架から吊るされ運ばれている馬や、もうもうと煙を上げながら停まっている汽車の付近に集まる人々などいろいろな要素が組み合わさって、不思議なほど現実離れした光景になっている。

 私は何を見ているのだろう? これは何だろう?

 事前に内容を知らない状態で眺めるのと、最後まで映画を見届けてからもういちど初めに戻るのとでは、当然ながら感じられるものが大きく異なった。

 

 直後に映る、アレクサンドリアのいる病室の壁にも、上とそっくりな形で馬の人形が吊るされていることに気がつく。また彼女が階下に下りて目にした、ピンホール現象で逆さになった馬の影、そして宝物箱に入っている父の写真と奪われた馬。

 ロイの作り話、壮大な嘘の叙事詩はまだ始まってすらいない。

 しかしもうこの時点で、鑑賞者が視界に収めているはずの現実と虚構の境は、すでにだいぶ曖昧になってきているのだ。

 レントゲン室に防護服を着て出入りする病院の人間の印象も、それに拍車をかける。他ならぬアレクサンドリアが感じている世界がそこにはある。知らない存在は、すべからく恐ろしいもの。

 

 現実世界と虚構世界の重なり方は、この映画の特筆すべき部分のうちのひとつだ。こちら側の世界の全てが如実に反映されているかといえばそうではなく、けれど確実に、作り話(ロイの叙事詩)の側はシナリオにも登場人物にも影響を受けている。

 なかでも大きく物語の流れを変えたのは、病室で零れた飲料を拭き取ろうとしたところから「復讐の誓い」へと移行するとき、アレクサンドリアの父はもう死んだのだと聞かされたロイの動揺。

 それから終盤、結婚式の場面で司祭の裏切りが発覚した直後に、山賊の娘としてアレクサンドリアが袋から登場する場面。このあたりからはもう最後に向かって一気にあらゆる要素が展開していく。

 行き当たりばったりのつじつま合わせで6人の進行方向が変わるのも、山賊の物語がロイによる即興の作り話であることをきちんと示していて、演出が巧み。

 

 チャペルから聖餐の薄焼きパン(ホスチア)をくすねてきたアレクサンドリアが、半分かじったそれをロイに与える場面。ここでいつも泣いてしまう。

 カーテンで仕切られた2人の世界で、疑似的な聖体拝領が行われるのだ。

 ロイはこの行為が示すことの意味を知っているので、少女に対して「僕の魂を救済しようとしてる (Trying to save my soul)?」と尋ねる。でもアレクサンドリアには分からないから、要領を得ない答えしか返ってこない。それでも彼を闇の底から救う。

 最後にはオウディアス総督もその恋人も辿り着けない場所に至って、2人で物語を終わらせる。

 新しい人生の物語を紡ぐために。

 

 アレクサンドリアに出会ったばかりのロイの眼には、光がなくて怖い。心の底で死に惹かれている。加えて、求める死のために、たまたま通りがかった罪のない少女を利用するのも厭わない、冷たくて危ない感じのする人間である。

 けれど、彼の良心や映画への情熱は完全に潰えたわけではなかった。どこまでも深い絶望に覆い隠されていただけだ。

 少しずつ、本当に少しずつ2人の言葉や視線が一本の紐として編まれ、悲しいだけではない物語を生み出した。

 

 ……結局、アレクサンドリアは大怪我のリスクを負った果樹園の家業から抜け出せないし、退院後にロイの携わったスタントの数々は、命がけで危険極まりないものだ。お互いにいつ何が起こってもおかしくない。

 ルーマニア移民の彼女がもっとよい仕事につけること、また彼の方は大怪我をする前のように役者の仕事ができること、仮にそれらが可能であったならば理想的かつハッピーな絵空事のエンドが実現したはず。

 けれど、そうはならない。

 

「落下の王国」は、作品を通して無条件で万能の救いが与えられる映画とは違う。

 ただ、鑑賞者と登場人物たちの魂を救う。私はそう思っている。

 

 

 

 

 

 

はてなブログ お題「邦画でも洋画でもアニメでも、泣けた!というレベルではなく、号泣した映画を教えてください。」