あるときひどい眩暈を感じて視界が揺れて、開いた本に印刷された文字列を、再び頭から順番になぞった。今度はそれを構成する一文字一文字に、じっと意識を向けながら。
殴られたのだと思った。あるいは、無理矢理に毒でも飲まされたのだと。
けれど、何の変哲もない文字にそんな所業ができるわけもない。平たい紙面から浮かび上がり、生身の体を得て、私に直接影響を与えるなんて不可能なのだから。
そのはずなのだけれど、実際には確かに異変がもたらされていたし、無意識に煽った傍らのお茶は、数分前とまったく違う味がしたのを憶えている。
どこかの世界には、不用意にページを開くと背筋も凍る叫び声を上げたり、あるいは読者に向かって物理的に噛みついてきたりする本、というのが存在するらしい。
幸いにも(いや、むしろ不幸にして)そのような書物に触れる機会は今までなかったけれど、実はいわゆる普通の本を手に取る際も、要求される覚悟の程度はけっこう甚だしい。うっかり丸腰で挑むとかなり痛い目を見る。
書物は時に無音でも叫ぶし、動かずとも噛みついてくるものだから。
なにしろ内容に没頭している最中だけではない。
たとえ読み終わり、本を閉じてから長い月日が経過したところで、読み手である私は彼らからの影響を完全には無視できない。良いものでも、悪いものでも。やがて、その区別が何ら意味を持たなくなったとしても。
読書はそれなりに危険な行為である。
たとえば、実際に猛獣の檻に放り込まれるよりは安全なのかもしれないが、分厚いガラス越しに泳ぐ巨大なサメを眺めるようには、悠然としていられない。油断していると思い切りやられてしまう。
突き詰めてしまえば所詮、単なる文字や図である。紙に印刷されるか画面に表示されているかの違いはあれど。
表されている内容も意味も関係ない、こんなものに価値観を左右されるなんてたまらない。己の軸を見失っては困るのだし、無様に右往左往したり、安易に足元を掬われたりするなんて、嫌! とどれほど強く念じていても、大抵は無駄な努力に終わる。
いちど読んでしまえば、それ以降、生活の中のあらゆる場所で「そいつ」を見かけることになるし、たびたび声まで聞かされる。
確かに文字は生きているかもしれないが、私をめがけて手を伸ばしたり飛び掛かったりはしてこないし、激しく揺さぶることも、危害を加えることもしてこない……もとよりできるはずがないのに。
そんな願望にも似た思い込みは、いとも簡単に落城させられてしまうわけで。
ある箇所に差し掛かり、これは少しまずいかもしれないと直感して、本を素早く閉じる。
そうすれば視界から文字が消え、消えた以上はもう安全だと言いたいところだが、自分の心は確実に休まっていない。遮断したはずの危機は結局、頭の中にずっと残るのだ。
それが危ないだけの行為ならば別にやめればよい。
やめられないのは、読書は恐怖だけではなく、比類のない気分の高揚だって私にもたらしてくれるから。世界に存在する他の、文字通りに他の何よりも素晴らしい感覚を、苦しみも癒しも一緒にして与えてくれる存在でもあった。
だって、想像するって面白い。
新しい物事を知るって、ものすごく、楽しい。
ページをめくれば心拍数が上がり、呼吸が乱れ、一瞬にして場面は移り変わる。
あの故事で壺へと飛び込んだ老人と役人が、その中で限りなく広い空を見ていたように。雪原を飛び回り、駆け回る。かと思えば今度は身動きも取れないほど冷たく狭い牢で、神経をとがらせて脱出の機会を伺う。次はまばたきの間に豪奢に飾り立てられて、どこかの橋を渡る。
幻覚や幻想を与える類の薬物よりも、酒類よりもずっと強力で確実で。
それなのに必要なのは指と眼だけ、紙を手繰って読み進めるだけ。どこから始めてもいいし、既読の場面に戻ってもいい。何度でも好きなだけ。これは合法だ。
読書には用法も用量も、使用期限も定められていない。だから、深みに嵌まれば一生やめられないという中毒症状が待っていて、少しでも空いた時間があれば文字を摂取したくなってしまう。
周囲に何も読むものがないと落ち着きがなくなり、静かに震えはじめる。目を走らせて看板 標識 説明書 商品名 施設名 成分表 時刻表、そんなものたちをただ、読む。空腹に食べ物を次々収めていくみたいに。
そこへ一冊の書物が差し出されてやっと震えが少し止まる。さっそく没頭を始める。
するとそれ以外の現実のすべてが煩わしくなり、この手を止め、視界を遮ろうとする何もかもを遠ざけて、本だけに浸っていたいと心底願うのだった……。
先日某所に足を運んで、自分の子どもを本好きにしたい、と思う人間の数はそれなりに多いらしいと気が付いた。
幼少期からこの絵本でひたすら文字に触れさせ、何歳になったらこれを読ませ、さらに就学したらこれを順に読ませる……云々と書かれた商品ポップ。現代社会は随分と大変だ、大人も子どもも。
だが、大人たちは本当の意味で、子どもをいわゆる「本好き」にしたいなどと望んでいるのだろうか。
書物をこよなく愛するようになると、それなしでは生きていけなくなる。手元に本がないとどこか落ち着かず、無意識に読めるものを探し求める。
中毒症状である。まさに依存症である。
読書に没頭する悦楽を知ってしまったら戻れないし、ともすれば目の前に実体を持って存在しているものよりも、文字によって綴られた対象や情景、物語の方に心寄せるようになってしまうかもしれないのだ。
個人的にはそういう状態、とても良いのではないかと思う。なんとも魅力的だ。私の目からすると。
けれど教育熱心な世の親御様方の中に、子どもにそうなって欲しいと思っている者などはほとんどいないはずだ。むしろ嫌がることだろう。極端な読書中毒、読書依存はお呼びでない。
大抵は大人にとって都合の良い、将来に役立つ本を都合よく読んでくれる、都合の良い読書好き、を求めているのだろうから。
今日はなんとなく、本がくれる最高の酩酊感について考えを巡らせていた。
もしも、本が読みたいのに色々な事情でできない子どもが隣の家に住んでいたら、譲渡することはできないけれど(生きている間は手放したくないものが多いので)、いつでも好きなときに部屋に来て、本棚から選んで読んでいいよ、と言うだろう。
本を好きになれなんて馬鹿げたことを要求するのではなく、その子が本って面白い、と感じてくれたら嬉しいから。