参考サイト:
横浜市歴史博物館-都筑区センター北(公式サイト)
写真の中の明治・大正(国立国会図書館)
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築地への乗合馬車がゆく幅の広い路にそって、鉄道が走る。伊勢佐木町の劇場街には、斜めにかしいだ細い旗がいくつも並んで、海からの風を受けてはためいていた。陽が落ちれば軒先の提灯に火が灯されるだろう。赤、青などの色が、あとから付与された白黒の写真。
写真機の存在が珍しいのか、画面の隅には荷物を持ったまま佇む男や、親に連れられて飴を持って歩く子供がこちらを見ているようだ。
ぱらぱらとめくった資料集の一ページ、印画紙に焼き付けられた、明治横浜の風景だった。
以下は横浜市歴史博物館の展示物である。
過去、百貨店にまつわるこんな小話を書いた。
大正3年に新築の建物でオープンした三越日本橋本店と、その着想となった、イギリスの某デパートの話。
特筆すべきなのは、客の要望に応じて商品を奥から出してくるのではなく、あらかじめ店内に陳列しておく新しい販売の形態。また購入に際して、値段の決定に交渉を必要としない、いわゆる現金掛け値なし。
現代においては当然でも、当時は画期的だった営業の仕方の源流は、他ならぬ三越だったと言われている。
そんな百貨店の前身ともいえるような存在が明治初期の日本には生まれていた。
名称を勧工場(かんこうば)という。
これはかつて、横浜伊勢佐木町に存在したとされる、勧工場「横濱館」の復元模型。横浜市歴史博物館の常設展示室、近代のスペースで見ることができる。
大きな二等辺三角形の下にチェッカー柄の提灯が釣られているのが目立った。ファンライト付きの2階の窓もしゃれている。
小さめの間口からはなかなか想像ができないが、内部にはひとつだけではなく、複数の店舗が軒を連ねて多様な商品を扱っていたのだそうだ。まるで現代のショッピング・モールのように。
そもそも勧工場登場のきっかけを辿れば、明治10年の内国勧業博覧会へと至る。
そこで行われた出品物の卸売りを経て、売れ残った品をうまく処分するために、陳列所として作られた場所だったらしい。それから一般市民には、ちょっとハイカラな感じのものが手に入る場所として利用されていた(一時期は粗悪品を売る店だと言われてしまったこともある)。
岸田劉生の随筆《新古細句銀座通》にもこんな描写がある。
誠にこの勧工場というものは、明治時代の感じをあらわす一つの尤もなるものであって、私共にとっては忘れられない懐かしいものの一つである。細い一間半位の通路の両がわに、玩具、絵草紙、文房具、はては箪笥、鏡台、漆器類、いろ/\のものを売る店があって品物をならべた「みせだな」の一角に畳一畳位の処に店番の人が小さな火鉢や行火をかかえてちんまりと座って、時分時にささやかな箱弁当でも食べていようという光景はとても大正昭和の時代にはふさわない。
この先も読むと、夜になると電燈やアーク燈が灯されたり、時にはガス会社が宣伝のために出張でやって来たりと、勧工場という施設の繁盛ぶりが伝わってくる。
従来とは異なるガラスケースの中に、国産や舶来の品々が並ぶ光景はこんな感じだっただろうか。当時の人間になった気分で想像してみると面白い。
思わず、お財布に手が伸びる。
そこにある商品を眺めて購入を検討する、あるいは単に目で楽しむ。そんなお買い物のスタイルが普通の行為として浸透したのは存外に最近のことなのである。勧工場には老若男女、多様な層の顧客が日頃から見物に集った。
私個人としては店員さんとのコミュニケーション、値段交渉などが苦手なので、いまの正札販売的な形態がほんとうにありがたい。
勧工場は大正時代になると、百貨店の台頭の影響もあってか徐々に姿を消していった。今では話題にのぼる機会もあまりなくなった施設だが、文明開化期に市民へと少なからず変化を及ぼしたものとして、近代の生活を考える際には頭の隅に置いておきたいものである。
国立国会図書館のサイトでも一部の写真を見ることができる: