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彷徨する自由帖

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近代化遺産《記念艦 三笠》- 明治時代にイギリスで造られた戦艦の復元

 

 

 ある街や都市の内外を行き交う人間の役割を表現するのに、しばしば血液という言葉を使っている。

 張りめぐらされた道を血管に見立て、時には内臓のような建物に流れ込み、あらゆるものを機能させる彼らの様子をたとえて。

 そう考えれば、大きな船はそれ自体がひとつの生き物のようにも思える。内部を構成する一員となって職務につき、生活をしていた人々がそこに流れる血として、はるかな海の上に鯨か鮫のごとき船体を泳がせていた……と想像すると。

 

 よく耳にする月並みな比喩でも、古くから使われ続けているのにはきちんと理由があるのだと実感する。

 

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 役割を終えてからも、横須賀港の片隅で一般公開されている「記念艦 三笠」。

 総乗組員数は約860名。そのうち海軍中尉以下の兵が約830名を占め、彼らはみな天井から吊り下げられた網状のハンモックを巧みに用いて、毎日睡眠をとっていたという。それだけの数の人間と、彼らの生活に必要な設備が詰まった船は、やっぱりひとつの街であり巨大な生き物でもあるみたいだ。

 三笠は当時、イギリスのヴィッカース社バロー=イン=ファーネス造船所に依頼して造られた戦艦で、明治33年に進水し、後に横須賀を経由して舞鶴港へと運ばれた。

 衛星写真や地図で今の三笠を上から見てみると、船体はほとんど公園の陸地と一体化しているように見えるのがわかる。廃棄を逃れた三笠がこのように固定され、保存されるに至ったのは大正14年の頃。

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 やがて第二次大戦後、マストや砲台が売却された甲板の上部に、遊興施設(ダンスホールや水族館など)が設けられていた頃もあったそうだ。

 現在は昭和33年に再興した三笠保存会の尽力もあり、往時の姿に復元された姿で見学客を迎えられることとなった。

 海戦において大きな功績を残し保存されている「世界の三大記念艦」に、三笠もその名を刻んでいる。ちなみに他の二隻はイギリスの戦艦ヴィクトリーと、アメリカの戦艦コンスティチューション(通称オールド・アイアンサイズ)。

 同じ神奈川県、横浜の山下公園で公開されている氷川丸と相違点を比べるのも面白い。氷川丸は昭和初期の貨客船で、一方の三笠は明治の戦艦……と時代区分も役割も大きく異なるが、共通点はどちらも近代遺産として貴重な史料であること。

 記念艦三笠は博物館として、三つのエリアに分けられている。

艦橋および上甲板

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 訪問時は保護用の覆いがかけられていたものの、その端から確かに顔を覗かせている、木の床。これは竣工当時から残っている貴重な設備のひとつだ。素材となったチーク材の堅牢さは金属にも匹敵するといわれ、水に強い性質もあってか、船舶においてよく用いられている建材。

 上の写真の説明文、特にher constructionの部分に注目されたい。これがitsでもhisでもなくてherなのは、船という単語が文法的性別では女性に分類されるから、なのだ。とても面白い。

 脇には無線電信室がある。

 日本では、明治2年の末に東京—横浜間での電信が開始されていた。当時は電報のほかハリガネダヨリ(針金便)と呼ばれることがあり、また、横浜の外国人居留区内で発行されていた新聞のある箇所では「テレグラフ」とも表されていた(参考:明治生まれの日本語|著・飛田良文 / 角川ソフィア文庫

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 そしてこれは、舵取り機械が故障した時に使われる手動操作用の舵輪。自分の身の丈よりも大きな舵輪を見つめていると、眉間の上、額のあたりからじんわりと不安が広がっていくのはなぜなのだろう……。

 補助砲(8cm砲)が並ぶ左舷を歩いている最中、まるで船体が穏やかに揺られているかのような錯覚をおぼえる。実際にそんなはずはないのだが、港からの風と絶え間なく打ち寄せる静かな波の音が、確かにこの船が前進してどこかへ向かっているのだと訪問者に感じさせてならない。

 突き当たりには流し場の痕跡と、残飯や排水を捨てるためのスカッパーが設けられており、足元を見れば白黒のタイルが残されている。これから邂逅する士官室の向かいにあったバスルームと同じ柄なので、おそらく水回りの意匠をそれで統一していたのだろう。

 無骨な戦艦であるにもかかわらず、そこだけを切り取ってみれば古い洋館のお手洗いだと言われても特に疑問に思わない。

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 主砲や主錨の装備された上甲板の前部へと抜けた。

 ちなみに、通常であれば主錨は艦首のあたりに設置されるのが普通だが、三笠の場合はこれが側面になっている。理由を調べると、当時は戦闘の際に敵艦へと艦首をぶつける行為が手段の一つとして残っていたため、そのとき破損してしまうのを防ぐ目的があったからだという。

 腕よりもはるかに太い鎖、突端に向けて収束する船の輪郭、かたつむりの眼みたいな二本の主砲が少しだけ怖い。童話「ジャックと豆の木」に出てくるような巨人の城に忍び込んだら、きっと似た思いをするに違いない。

 余談だが、そういえばこのお話も三笠と同じく、イギリスから伝わったものだと気が付いた。

 右舷のマントレットはハンモックの別名でもあり、装甲板に覆われてない場所を弾丸から保護するために使われた、縄の集積だ。今は植物の蔓みたいに上からだらりと吊られている。かくれんぼにはうってつけだが、ここでそんな風に遊んではいけない。

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 操舵室のある艦橋にあがってみよう。

 まずお目にかかるのは前部司令塔で、ものものしく風変わりな外観は、継ぎ目のない宇宙船の装甲か何かを連想させる。これは、外部から攻撃を受けてもなるべく影響が及ばないようにするための堅牢な壁だ。厚さは約35センチメートル。

 司令塔内部にある磁気羅針儀や操舵輪、そして速力指示器などは操舵室のものとまったく同じで、通常であればそちらの方が主に用いられる。こんなにも小さく少ない機材が戦艦の行く末を左右していたなんて、一見しただけでは信じられない。

 裏の棚に収められている国際信号旗が視界に入ると、あのジブリ映画「コクリコ坂から」を思い出す。舞台は横浜、私の地元。

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 細い階段の先で最上艦橋に立つ恐ろしさを味わってから、中甲板のちょっと近代建築風のエリアを楽しみに歩を進める。

中甲板

 突然だが、私は近代建築の水まわりが大好きだ。だから同時代に竣工した船の上でもまったく気が抜けない。記録をしたいと素早く視線を走らせつつ、何度もカメラを構えてすぐに息を切らす。

 それに出会ったが最後、一瞬にして全身の血液が沸き立ってしまうから。

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 このバスルームの床のタイルが上甲板の流し場跡と同じ。なんとなく、バスタブを覆うフタとしての板が備えてある部分に、日本的なものを感じずにはいられない。

 中甲板後部の艦長室、長官室、長官公室が他と比べて随分と華やかなのは、もちろん彼らの役職に応じた責任の重さに比例していることもあるが、ここが迎賓や会談のための部屋として使われていたのも理由のひとつだ。

 特に、バルチック艦隊の降伏文書が調印された長官公室は広く、暖炉も備えていて、英国ヴィクトリアン様式の大きなテーブルに心を奪われる。素材はマホガニーで、脚は艦の通路の狭さを考慮してか、組み立て式だった。それぞれ四本の長さは床の傾斜にも対応しているらしい。

 1902年ごろに制作されたといわれていて、どこか他の邸宅から運び込まれたわけではなく、この三笠のためにわざわざ拵えられたというのだから、これほど空間に調和しているのにも頷ける。

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 隣接する長官室は艦外のスターンウォーク(船後方のベランダのような場所)に繋がり、壁が船の先端に沿って傾いていた。

 それゆえ扉も傾いているというだけの話なのだが、実際に部屋に足を踏み入れた瞬間の妙な印象が面白かった。いつの間に不思議の国の家にでも迷い込んだのかと。視覚から得られる情報が、自分の平衡感覚を狂わせる。

 これらをはじめとした特別な部屋の数々では、顔を上に向けても他とは違う意匠が目に入ってくる。光を取り入れる天窓とか、あるいは無骨な鉄骨の部分にささやかな模様を施して、高級な感じを演出している部分とか。

 天井から管を伸ばす照明器具の花を思わせる形状も、三笠が軍艦であった事実をほんの一時だけ忘れさせる装置として働く。

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 食堂のように長テーブルと椅子が並ぶ広い空間は士官室。

 大尉から中佐までが事務仕事に勤しんでいたほか、食事や会議の用途にも使われた。ここに集まることができる立場の者には、ハンモックではなくて自分の寝室が与えられていたため、生活において個人の領域がある程度守られていたと思われる。軍の毎日は大変そうだ。

 こうした三笠の一角はミリタリーに心を寄せる人間だけでなく、近代の洋館好きをも惹きつける大きな魅力を備えていると思うので、訪問をおすすめする。

 洗い場とおぼしき場所には皿やコップをしまう棚があったり、ある部屋にはチーク材を用いて竣工当時に作られた脇机も残っていたりと見どころは尽きない。

 あとはほんとうに些細な部分のうち、どうしても意識せざるをえないのが壁際のソファだ。写真をご覧になっていただければその圧倒的な良さが伝わるだろう。そこに宿る魔力に、一切の説明はいらない。

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 壁と一体化しているソファが角にさしかかる場所、どう考えても何らかの妖精がいる。そこにちまりと収まりたい気持ちが湧き上がるのを抑えることができず、苦しくなってくるのだ。

中央展示室

 展示室のエリアはその名の通り博物館然としていて、当時を知る参考になるものが多く並べられており、なかには竣工当時から昭和62年まで長らく艦首にあった菊花紋の飾りも収められている。

 近くで見るととても大きい。

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 また、これはある大佐が愛用していたとされる、日露戦争(明治37~38年)当時のイギリス製カメラ。幕末から明治期にかけて写真技術が文化へもたらした影響は甚大だった。

 三笠には実際に艦内で生活をしている兵たちの様子(散髪をしたり余暇に出し物を楽しんだりするシーン)を映した写真も多く、文献の記録以外にも非常に参考になる資料が充実していて、創作の参考にもなる。

 兵たちの笑い声が聞こえてきそうな風景や、レンズを向けられて眉を下げる彼らの表情など……写真から得られる印象は稀有なもの。

 もちろん、何もかもをそこに映し出せるわけではないが、肉眼だけでは捉えることの難しいものが焼き付けられ、経年によって劣化はしながら人の記憶より長く残る場合がある。

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 記念艦 三笠があるのは、要塞の残る横須賀の無人島、猿島へ出る船の乗り場「三笠ターミナル」のすぐ横だ。

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