参考サイト・資料:
古民家岸邸(厚木市のサイト)
検討 旧岸家住宅(厚木市教育委員会)
本厚木駅北口からバスを利用して、約30分。決してアクセスが良いとは言えず、神奈川県内在住でないとなかなか訪れにくい位置にあるが、時間をかけても見に行くに値する近代の邸宅が厚木市にある。
建物は古民家岸邸、あるいは旧岸家住宅と呼ばれており、平成11年から一般に公開されていて入場料も無料の施設。
自由に見学できるのは旧主屋と庭の一部だけだが、窓から別の棟を覗いたり、土蔵の存在を確かめたりすることはできた。かつては、養蚕と農業を営んでいた裕福な家族が住んでいたようだ。
入り口にある門は、熱海の起雲閣で遭遇したものと同じ薬医門の造りで、棟札の記載によれば明治19年の建造と古い。延べ130年以上もの間ここに佇んでいることになる。
現地では、時代の変遷を見守り続けたこの家と人々の生活に思いを巡らしつつ、様々な細部の意匠に心を傾けたい。
旧岸家住宅
寄棟造かつ瓦葺屋根の主屋。当時はまだ、個人住宅における瓦葺の屋根は珍しかった。
竣工はおそらく明治24年ごろと言われており、大正時代から昭和初期にかけて様々な増改築が繰り返されている。後で上る二階の天井が低いのは、平屋が一般的だった時代から二階建ての形式へ移行するにあたっての名残り。
玄関は大きく土間も広く感じるが、同時代の他の農家に比べると少し狭いのだそう。理由として、主屋が農作業や養蚕を行う空間とある程度切り離され、もっぱら生活や接客に用いられていたからだとのこと。
敷居を跨いで顔を右上へ向けると、ささやかな窓にガラスがあしらわれていた。
一階には客間と広間、お手洗い、庭に面した小さな入り口と、廊下から外側に張り出した空間がある。
吹き抜ける風が気持ちいいが、夏場は油断していると大きめの蚊に襲われるので注意。一寸カメラを構えようものならすぐ吸われそうになる。
それでも、立ち止まって眺めたい意匠があちこちに出現するから本当に困ってしまう。首と目がいくつあっても足りない。
お手洗いで上方を見上げると、美しい格天井が目に飛び込んでくる。
それだけではなく、壁には花頭窓のようなもの(黒い漆塗り)や、球形の照明といった洒落たものの数々が鎮座していた。主に客人用の手洗いのため、見栄えに気を配るのは分かるが、それ以上にこれらを提案した人間の趣味の良さが際立つ。手間がかかっているのに決して華美になり過ぎておらず、とても好感が持てた。
小さな宝石箱のようだ。
ちなみに入ることはできないが、記録によれば浴室も格天井なのに加えて、御影石と黒漆喰で飾られているとのこと。考えるだけで楽しくなってしまう。旧柳下邸の浴室では折り上げ天井に感嘆の声を漏らしたが、この岸邸にあるものもきっと立派に違いない。
ちょっとした照明や欄間にも心は浮き立つ。
展示してあった巨大な火鉢——螺鈿の装飾がある豪華なもの——からは、家族や客人が周囲に集って言葉を交わす様子や、頬を引っ掻くような冬の冷たい空気を感じられた。
今度は不穏な「サル出没につき注意」の看板を横目に階段を上る。
岸邸の魅力、その真髄は二階部分にこそ詰まっている…… と個人的に思う。特筆すべきなのは、窓の部分に贅沢に、ふんだんに用いられたガラス。それらが演出するのは光だけではなく、家屋全体に響くかすかな音も含まれていた。
この日は、よく晴れていたが風が強かったのだ。適当に館内をうろついていると、庭の草木がザワザワ揺れる他に、カラコロという軽やかな音が微かに混じって聴こえてくる。軒からは何も下がっておらず、風鈴でもなし、一体何だろうと耳を澄ませば、窓と引き戸が震える音だった。
建物の中のガラスはそういうものも生み出せる。
あまりにも可憐な市松模様に目を奪われていると、透けて見える外側の木々が磨り硝子に写り込んで、その色を白のかった緑に変えているのが分かった。
ひたすらに幻想的で息をのむ。
そもそも、増築を行った大正時代当時、これを自分の家に設置しようと思ったこと自体が素晴らしい。
先刻も述べたが、岸邸は決して派手ではないのに細部まで気が配られていて、見どころが沢山ある。中国風の透かしが施された部分、青色をした壁のザラザラとした質感、それから襖の文様など、枚挙にいとまがない。
存分に二階の和室を楽しんだら今度は洋室へと向かう。部屋の近くに上ってきた階段と窓があり、そこから首を伸ばすと外壁が見える。
岸邸の他の部分と違い、そこだけ白いレンガを思わせるタイルが張られていて、洋風の室内と対応させているのだと気付いた。瀟洒で涼し気な外観に心惹かれるし、ますます人々がどんな風に生活を営んでいたのか、興味を惹かれた。
余談だが、ここに住んでいた岸家の方々は、かの有名女優・岸恵子氏の親戚なのだそうだ。
洋室の窓の向かいにある、斜線と三角形を組み合わせたような欄干も凝っていて良い。屋根の下部にも装飾がある。
この家はいわゆる和洋折衷建築とは違い、和風の部分と洋風の部分は混合されずにそれぞれが独立している様式だった。部屋には大小の本棚と机、椅子が並び、書斎のような雰囲気を纏う。
私もこんな勉強部屋が欲しい。
また、木製のドアに設けられた小さなガラスのハートが愛らしいと感じた。おそらくは猪目(いのめ)だろう。
柔らかに照らされた室内は薄暗いが居心地が良い。
天井から下がる照明器具がこれまた洒落ていて、世界が夕闇に沈む時間帯にそっと明かりを灯したら、どんなに美しいだろうかと考えた。ここでも風にガラス戸が震える涼しげな音を聴く。
岸邸自体はかなり大規模な建築だが、見学できるのは今回紹介した主屋の一階二階と洋室、庭の一部分のみになっている。
当時の暮らしや、一般の個人宅で採用されていた建築様式の詳細など、多くを私達に教えてくれる遺産。この貴重な近代の家屋がより良い状態で保存され、長らく次世代へと受け継がれ続けていくことを願ってやまない。