前回の記事はこちら:
今回は広場散策と、食べ物の話をします。
参考サイト:
UNESCO World Heritage Centre(ユネスコ世界遺産のサイト)
レギスタン広場
オアシス。砂漠の国で、ザラフシャン川のほとりに築かれた美しいサマルカンドの街は、時にそう呼ばれることがある。
グーリ・アミール廟から北東へと進み、大通りを渡った先で目にしたレギスタン広場は、その中でも「水辺にないオアシス」と称されても良いのではと思った。足元に広がるのは一面の石畳だが、周囲の景色からは確かな潤いを感じる。
面白いことに、レギスタンとは現地語で「砂の地」を意味するのだそうだ。
象徴的な青色のドームにあしらわれたタイルは、ぷるぷるとした見た目が可愛らしい。ここには三つの神学校(メドレセ or マドラサという)が門を構えており、それぞれが別の時代に建てられたものなので、装飾の意匠や様式に僅かな違いがみられる。まず、向かって左のものから覗いてみよう。
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ウルグ・ベク・メドレセ
広場の中で最も古いのは、ウルグ・ベクが建てたこのメドレセ。ミナレットの大きな傾きが気になる。以前はその角度が逆だったそうだが、ソ連の時代に改修工事が行われ、万が一倒れた時に観光客が被害を受けないようにされたらしい。
彼の祖父・ティムールの時代にはバザール(市場)だったレギスタン広場だが、後にキャラバンサライ(隊商の宿)として使われ、17世紀頃に残りのメドレセの増築を経験して現在のような形となっている。門の上部にあしらわれているのは文様化された星だ。昼間でも鮮やかにきらめいていた。
――その昔、サマルカンドの中心部はアフラシャブの丘(後の記事で記述します)にあり、当時の街はマラカンダと呼ばれていた。13世紀前半にチンギス・ハーンによる襲撃を受け、荒廃した地を再建してできたのが、現在みられるような旧市街の景色。
青いドームが特徴的な廟やモスクの数々も、その頃に作られたものだった。
もしも私が敵国の指導者だったならば、果たして侵攻の際に、それらを壊せと迷いなく命じられるだろうか......? 多分、無理だと思う。自分は戦には向いていない。
ウルグ・ベクは君主であると同時に、優れた学者でもあった。
なかでも天文学に造詣が深く、天文台の建設を行ったり、彼自身が実際にこのメドレセで教鞭をとっていた記録も残っている。内部では関連する展示を見ることができた。
個人的に、砂漠の国々や文化と月や星などの天体はとても親和性の高い組み合わせだと思っているので、それを感じるたび楽しくなる。
中庭に出ると集合住宅のように扉や窓が並んでいるが、これらは全て神学校の生徒たちが暮らした寮(フジラという)や教室の跡。現在、各部屋ではお土産を扱う商店が軒を連ねている。少し悩んだが、せっかくなので、組み紐と石でできたブレスレットを買って持ち帰ることにした。
現地の至るところで売っている、軽くてかわいいおすすめのお土産。
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ティラカリ・メドレセ
モスクに一歩足を踏み入れれば、なぜこのメドレセが「ティラカリ(金箔)」と呼ばれているのかよく分かるだろう。うっかり別の世界に迷い込んでしまったのかと思った。
前回のグーリ・アミール廟でも内部の絢爛さに驚いたが、この輝きは別格だ。前者が星の洞窟なら、ティラカリ・メドレセは濃縮された銀河のよう。17世紀の建造当時もさることながら、修復を行う際に使われた金の総量は、なんと3キログラムを超えるという。
他と違って宿舎を持たないメドレセだったので、生徒たちは主に礼拝の際にここへ通った。また、ショブ・バザール近くに設けられていた大きなビビハニム・モスクが荒廃していたので、その代わりとしても多くの人々が訪れたとのこと。
抽象化された文様をじっと眺めていると、半ば奪われるようにして思考することを忘れる。後にはただ恍惚だけが残る。
視覚的な音楽と言うべきか、紡がれた幾何学模様はある種の音色を奏でながら、無限に増殖していくようにも感じられた。それは当初想定されていた形式を離れても、鑑賞者の脳内でどこまでも続く。演奏が途切れるまでは。
現在ここは、音楽祭などのイベントが開催される賑やかな場所。
中庭に植えられた木々の緑と、潤いを感じさせるつややかなタイルの青に心を洗われるようだった。ウズベキスタンの空気は乾燥しているため、日差しが強くとも、木陰に逃げれば一気に体感温度が下がる。湿度の高い日本の夏だとなかなかこうはいかない。
昼夜の寒暖差が大きく、日中は汗がにじむような気候でも、陽が落ちれば上着を手放せないくらい涼しくなるのが現地の気候の特色だった。
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シェルドル・メドレセ
レギスタン広場の東、三つ目の神学校。シェルドルとはタジク語でライオンを指す言葉だ。その呼称のとおり、門のアーチ上部には二匹の獣(ライオンではなく虎に見える......)がモザイクで描かれている。
だが――イスラームの世界で偶像、つまりは具体的な形のものを信仰の対象にするのは、固く禁じられていなかっただろうか?
多くの人々がそう指摘するとおり、この図柄は物議を醸した。一説によれば、当時の支配者ヤラングトゥッシュ・バホドゥールが自身の権力を誇示するため、この意匠をあしらうよう命じたのだと言われている。後に責任を感じた建築家の側が自死を選んだとか。何とも恐ろしい。
ちなみに、バホドゥールは前述したティラカリ・メドレセの建築も指示した人物だ。
また、建物内部にはわずかではあるが、ゾロアスター教の影響が見られる。名前の響きに、妙に心の片隅をくすぐられた。これは《アヴェスター》という聖典を教義とする古い宗教で、火を崇拝する拝火教。
現在のイラン周辺地域で隆盛だったゾロアスター教に関連する炉などの遺跡は、ここウズベキスタンにも少なからず残っている。
レギスタン広場はサマルカンドの他の遺跡と同じく、夜も美しい。
私が訪問した際(21時頃)は運よくプロジェクション・マッピングが行われており、東西交易の代名詞となったシルクロードの歴史を光と音で楽しむことができた。
今まではこの手のイベントにあまり興味を持っていなかったけれど、予想以上に良かったと思う。実際の建物をスクリーンとして映像が展開されるのだが、文様や構造に合わせて設計されているのは見事だった。
食わず嫌いだと損をする。
次項では、少しご飯の話をしたい。
サマルカンドで食べたもの
合計5日という短い滞在でもよく分かった。ウズベキスタンのご飯は、本当においしい。
今回はサマルカンドで出会った食事たちについて記載していく。タシケントやシャフリサーブスで食したものの記録は、また追って更新する予定。
まずはこちら、餃子か小籠包のような見た目のマントゥ(マンティ)から。
私は数ある料理の中でもダンプリング類をこよなく愛している。
以前ロンドンでジョージア料理店を訪れた時はヒンカリの美味しさに舌鼓を打ったし、それ以外にも「モチモチとした皮に包まれ蒸された肉や野菜、魚介類」なら、大抵のものを喜んでいただく。
上の写真のマントゥには牛肉が入っていた。皿の真ん中に出されたサワークリームにつける。口に入れる。おいしい。クミンのようなスパイスの味もして良い。日本の食卓に紛れ込んでいてもあまり違和感のないタイプの品だと感じた。
それから、チャーハンのようなプロフ。大きな鍋で一気に作られる。甘い玉ねぎやニンニクとニンジン、よく火の通った柔らかな肉の組み合わせで油も多く使われているが、どこか優しい味がした。冬場のお弁当に入れて欲しい。
この中につみれのようなものが見えるスープには、白い麺が入っている。おそらくはラグマンと呼ばれる料理で、とても柔らかい。ごくごくいける。
これらの品々が、温かく香ばしい香りのパンやサラダ類と共にどんどん食卓へ運ばれてくるのだ。太らずにはいられない。いや、観光で一日中歩き回っているし基本立ちっぱなしなので、ある程度のカロリーは消費されていると信じたいが......。
中国、ロシア、コーカサス、果てはトルコなど、様々な地域の料理の良さを端々に感じられるのがウズベキスタンの食卓。
古くから交易が盛んで、多くの国と国境を接している場所で生まれた味だった。
胡麻の香りが食欲を誘う、外はカリカリで中は柔らかなパン(ナン)。
サマルカンドで作られたものは特に人気があるらしい。
提供される果物の種類も、とても豊富。鮮やかなザクロは食べるだけではなく、ウズベキスタンの有名なスザニ(刺繍布)や、文様のモチーフとして使われることが多い。
現地ガイドからは豊穣や子宝の象徴であると聞いた。
実を割り開くと現れる、透けた赤い粒はきらめく宝石にしか見えない。昔の人は、よくこれを食べようと思ったものだ。
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次回の記事は以下。
アフラシャブの丘とウルグ・ベク天文台跡、そして静謐な墓所シャーヒ・ズィンダ廟群を見学した記録です。