人生を通して、私がはじめて柘榴(ざくろ)という果物を口にしたのが、中央アジアに位置するウズベキスタン旅行の最中だった。
場所はたしか、古都サマルカンドの片隅に建つふつうの民家の離れを利用して、ささやかに営まれているレストランだったと記憶している。玄関の門から実際に現地の方のおうちに上がり込み、それこそ単なる旅行者というよりも、日頃から親交のある客人のような丁寧な扱いを受けた。
テーブルに並んだのはみずみずしいトマトが大半を占めるサラダや、弾力があって飾り模様のついた丸いナン、羊肉を用いた混ぜご飯のプロフに、平たいにゅうめんのようなラグマンなど……母国に暮らしているとなじみの薄い料理の数々。
みな、美しい柄をした紺と金のお皿に乗せて提供されると魔法の食事のようで、ナイフをつかむのにかすかな音でも立てたら最後、一瞬にして幻と消えてしまいそうだった。
儚く、石鹸の泡がはじけるみたいにして。
では肝心の柘榴はというと、食卓に登場したのは最後。デザートとして並べられた、各種の果物がつまった籠のなかに転がっていた。
私はその、実の先端ですぼまった果皮が鋭利な突起を形成している風貌から、たしかに一種の誘惑を感じた。だから視界に入れてすぐに手を伸ばした。まだ味を知らない果物へ。
知らない以上、その存在はたとえ目の前にあろうとも実感に乏しく、神話や逸話を通してしか認識したことのない記号のようなものだろう。
そう、書物に描かれた神も、天使も、それから柘榴も同じ。
柘榴の実を割ると、中にぎっしりと詰まった真紅の粒のきらめきが無数に顔をのぞかせ、指やスプーンでこそげるとぼろぼろ皿に零れ落ちてくる。
私は上からそれを見て、きれいだなと思うより先にぎょっとしてしまった。だって色も艶も、ずいぶんと生々しいではないか。小さい頃によく図鑑で眺めた、何十倍にも拡大された昆虫の複眼や、傷口にぷっくりと盛り上がった血が固まろうとしているようすに、妙に似ている。
人類史上これを最初に食べたであろう誰かは、よく口に入れてみようと決意したものだ。あるいは無理やり食べさせられてしまったのかもしれないし、本当に偶然、その粒が唇のあわいに入り込んでしまっただけなのかもしれないけれど。
ともかく柘榴はウズベキスタンのどこにいても目にする果物で、食用としてだけでなく、豊穣や子宝を象徴する記号としての意味を持っていたり、それゆえ実や枝葉を図案化した意匠がそこかしこに描かれていたりする。
タシケントにある歴史博物館の扉もそのうちのひとつ。
模様が一目で柘榴に見えなくても、特徴的なくびれや、実の先端の裂け目が抽象的に表されている部分を探しだせれば、そうだと分かる。
なかでも、散策の途中に出会ったスーザニと呼ばれる伝統的な刺繍布で、横幅が二メートルを超えるようなものには圧倒された。
綿の布地に光沢のある糸で刻まれた、主となる幹から無数に分かれた枝が画面全体を覆い、それぞれの先端に三つずつ赤い実が頭を垂れている姿。布のふちはさらに簡略化した実や葉の連なりで飾られ、たった一種類の植物をモチーフとしているのにもかかわらず、けっして単調になっていない。
色ごとに、一針一針がみっしりと寄り合っているのを近くでつぶさに眺めて、完成までに費やされた時間とその労力について考えた。どこかの部屋で、これまた伝統的な帽子(ドゥッピ)やスカーフをかぶった人の膝の上に広げられた布。
そこへ細やかに、けれどもすばやく糸を縫い付けていく、しなやかな指の動きを幻視する。
スーザニの刺繍は主に女性の仕事だった。母から子へと受け継がれ、完成した品は昔から結婚式などの贈答や花嫁のもちものとして利用されてきた故か、それぞれの家庭によって模様の意匠も異なるという。
そんなスーザニのテーブルクロスやクッションカバー、壁掛けには強く心を惹かれたが、いかんせん私が買っても生活の中で活かしきれない未来がはっきりと見えてしまったので、別の場所で、まったく違う種類の刺繍が施されたポーチだけを記念に購入することにした。
代表的な遺跡の前などでよく並べられている、いかにもお手頃なお土産です、とでも主張しているかのようなあれ。自分にはそれで十分だった。
表面に描かれている絵柄はもちろん柘榴である。
赤い糸の盛り上がりを爪の先と指の腹でなぞれば、本物の実の粒がぼろぼろ落ちてくる感じを間接的に再現できて、肩のあたりが異様にそわそわした。
ポーチを売ってくれたおばあさんからは謎の布でできた人形もすすめられたが、固辞したらニコニコと笑っていた。その代わりにというわけではなく、実際に作業しているところを見られたのが楽しかったため、そこから少し離れたところで木の板に彫刻の施されたマグネットを買った。
青地に白く浮きだたせた繊細な紋様に視線を絡め取られたのだ。
さて、話をはじめに戻そう。他でもない柘榴の味について述べていたところだった。
これほど現地でひろく親しまれている印象的な果物なのだから、さぞ食事の場でもおいしく平らげたのだろう、と思われるかもしれない。しかしそれが、私は柘榴自体の味をあまり好きにはなれなかったのである。
まず食べ方を理解するところからかなり難航した。
柘榴の実の粒は小指の爪ほどに小さく、そのすべてがうるおいを閉じ込めた透明な果肉のなかに、種を抱いている。
これは果たしてそのまま噛み砕いてもよいものか、どうか。お店の人に尋ねるのも常識知らずだと思われそうで恥ずかしく、私は迷いを捨てて一気にばりばりとやってしまうことにしたのだ。
そうしたら見事に種の香ばしい風味しかしない。ああ間違いだったか、と今度は果肉の実を地道に引き剥がしてかじってみたものの、印象としては「酸っぱい水」の域を出なかった。
なるほどこれが、口にした分の期間だけペルセポネーを冥界にとどまらせたといわれるあの果実の味なのだな、と遠い目をしながら、私はびっくりするほど大きなティーポットに用意された食後のお茶で種と実を胃に流し込んだのだ。
でも、サマルカンド滞在中に何度か買った新鮮な柘榴ジュースはおいしかった。
果物そのままの形ではなく、皮や種を取り除いて、果汁のみが絞られていたからかもしれない。考えてみれば、そもそも私はメロンやスイカなど水分量の多い果物があまり得意ではなく、加工して出されないといまいち食欲をそそられないのだったと思いだした。本当に今更のように。
また旅行から帰って来てから、柘榴を使った香りは結構好きになった。実際に触れて、口にして、知ったから想像ができる。香りの構成にポメグラネート(柘榴のことだ)とあると、その酸味を連想させる、すっきりしていながらも深みとわずかな甘さを含んだノートを探して、目を閉じる。
そうすると、いつかの風景が瞼の裏にあらわれるのだった。
世界に柘榴の産地は数あれど、私がその果物の名を聞いて思い浮かべるのは、必ずサマルカンドの薄く砂煙が舞う街だった。
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