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彷徨する自由帖

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明治の長崎に住んだ外国人商人たちと居留地の面影~グラバー園の邸宅群|長崎市旅行(3)

 

 以下の記事の続きです。

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南山手十六番館

 敬愛する遠藤周作の紀行文・作品集《切支丹の里》の冒頭に、こんな場面が出てくる。

 私だって、そんな明治初期に長崎に居留した外人たちの古道具や食器を見たいとは一向に思わなかった。だが天主堂のほうに戻る気がなかったから、そこで少しだけ時間をつぶそうと思ったのである。

(中略)

 考えていた通り、中はつまらなかった。それほど良くもない古道具や食器を大事そうに並べた間を、私は通りぬけ、あくびをしながら外に出ようとして、ふと、出口にちかい一室で、何か黒い四角いものが硝子ケースのなかに置かれているのが眼にとまった。

出典:中公文庫《新装版 切支丹の里》p.14 著者・遠藤周作

 彼が見つけたものは足跡で変色した踏み絵だった。この南山手十六番館 歴史資料館で展示を見た際の回想から、著作は展開していく。日本に伝来し変容したキリスト教を通して、信仰の在り方や人間の持つ弱さ、著者自身の人生について思考を巡らせ、それが《沈黙》の主題にも繋がっていく面白い作品だ。

 古い洋風木造建築である南山手十番館は、現在も変わらずグラバー園を出てすぐの場所に佇んでいる。ただし、2019年2月に何も下調べをせずに訪れ、中を覗き込んでみたところ、既に閉館していたことを知った。とても残念に思う。「どうぞご覧ください」と書かれた看板が、扉の内側でほこりをかぶっているのが見えた。

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 港町・長崎は洋館の宝庫だ。訪問時は肌寒い空気を感じつつ街歩きを楽しんだのに加えて、グラバー園で重要文化財指定建造物を中心に、各所から移築された貴重な洋館群を記憶と写真に収めた。見晴らしの良い高台にあって、どの建物も陽を浴びて心地よさそうだった。

 なかでも旧グラバー住宅明治日本の産業革命遺産を構成するうちの一つだが、修復工事が行われていて、内部を探検できなかったことだけが心残り。また行こうと思っている。

参考サイト:

グラバー園公式ウェブサイト

グラバー園内散策

 1965年に開園した名古屋の明治村。それに続くように、「長崎明治村」の構想を掲げて計画されたのがグラバー園だった。当時の暮らしや文化、社会情勢を反映する貴重な近代の建築群が保存・移築され、一般に公開されている。過去に居住していた人物たちの物語も興味深い。四季折々の草花も楽しめる園内は、多くの人々で賑わっていた。

 手元に写真のデータがあまり残っていないので(きちんと整理できていない)、載せられそうなものだけをかいつまんで記載していく。

  • 旧オルト住宅

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噴水

 慶應元年に建てられたこの邸宅は、イングランド出身のウィリアム・オルトが家族と共に数年間住んだ家だった。19歳という若さで商会を立ち上げた彼は、長崎の問屋の娘・大浦慶と手を結び、緑茶輸出業を営んで大きな利益を生み出した貿易商。後に大阪や横浜でも暮らしている。屋根のほうに目を向けると、茂る草木の上に伸びる煙突の頭が覗いていた。

 まるで神殿のように白い円柱が立ち並ぶ洋館は設計者が不明だが、施工は大浦天主堂を手掛けた小山秀之進によるものとされる。

 立派な車寄せがある玄関の前に設えられた噴水は、何らかの動力を内蔵していたのではなく、高低差を利用した仕組みで水を循環させる非常に古いもの。そっと近付いて、なめるように石の表面を眺めてしまった。とてもいい。

 邸宅全体は、外側に面した多くの窓が光を取り入れる造りになっている。

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厨房跡

 母屋の陰にある厨房の跡もおもしろい。竈(かまど)を見ると反射的に《ヘンゼルとグレーテル》が連想させられて、ドンと押し込まれるのではないかと背中がむずむずしてしまう。壁がはげているのも廃墟感を強調していて少し怖い。

 私は人のいない洋館で、元家主の生活空間、応接間、そして使用人の管理するエリアを跨いでウロウロするのが本当に好きだ。まるで幽霊になったみたいに動き回ることができるのが楽しい。記憶の残滓を適当に拾い集めて、適当に組み合わせて眺めるのは、最高の贅沢。だから建物園巡りをやめられない。

 そんな自分も洋館に住みたいと思っている。いずれは妖怪になって住み着き、夜な夜な静かに敷地を歩き回りたい。

  • 旧グラバー住宅

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足場の向こう側に

 修復工事中で中が見られなかったのがここだ。少し残念ではあったものの、特徴的な形をした瓦屋根を鉄骨ごしに眺めて、当時を想像しながら関連資料を読むだけでも十分に楽しかった。グラバー邸は文久3年に完成した、現存する国内でも最古の洋風木造建築。

 開港直後に来日したトーマス・グラバーは、造船採炭貿易国際交流と様々な分野で日本の発展に貢献した商人で、政府要人と浅からぬ関係を築き、留学生への出資も惜しまなかった。彼はこの家に、横に生えた木にちなんで「一本松」という愛称をつけ、日本人の妻ツルと共に穏やかな日々を送っていたようだ。

 2019年8月には、グラバーの息子・倉場富三郎と、その家族の時代に撮影された写真が発見されている。

 

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 富三郎は、連合軍と戦争中の日本で不遇な晩年を過ごした。同じくイギリス人と日本人の両親を持つ妻・ワカが先に亡くなってしまった悲しみに加えて、英米と縁の深い存在だった彼の周囲には、常に官憲の目が向けられていて窮屈だっただろう。果ては長崎への原爆投下という故郷の喪失を経験し、それから2週間も経たないうちに首吊り自殺でこの世を去ったのだ。

 当時の富三郎を取り巻いていた環境を想うだけで涙が出てくる。北海道の余市蒸留所で見た、スコットランドから日本へ嫁いできたリタの境遇も連想させられた。私は日本と諸外国の関わりに興味があってよく調べるけど、そこには必ず、両者の架け橋になるべく奔走し苦悩した、生身の人々の影がある。

  • 旧ウォーカー住宅

 前回の記事でも少し言及した、ウォーカー商会を設立したロバート・ネール・ウォーカー。長崎で《バンザイサイダー》などの清涼飲料を生産していた彼だが、この家には息子であるロバート・ウォーカー・ジュニア(二世)が居住していた。もともとは大浦天主堂の近くに建てられていたものを、グラバー園に移築したのが昭和49年のこと。

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 窓のすぐ傍に、横になれる長椅子が置いてある。あれは良くない。だって、陽射しの暖かな日にそこで過ごしていたら、あっという間に睡魔が襲ってくるに違いないのだから......。また、長い廊下のようなベランダが開放的だ。そこに座って、丘の上に吹く風を感じるのはどんなに心地よいことだろう。

 ウォーカー二世に関しては、グラバー園公式サイトの「南山手秘話」EPISODE 31でとある逸話が紹介されていた。

 曰く、第二次大戦終結後にやってきた連合軍は、日本にいる捕虜の開放や外国人の保護に着手するなかで、長崎に住み続けていたウォーカー二世の家族に気付く。彼らの前に、調査の一環で当時の日本人憲兵など「戦犯」となった容疑者たちを連れてきても、ウォーカー二世は戦時中の辛い仕打ちを咎めることなく、知らぬ存ぜぬを貫いたそうだ。

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瓦屋根

 その後も彼は南山手で静かな隠遁生活を送り、昭和33年8月に息を引き取った。激動の時代を経験した彼は、最後に安らかな気持ちで旅立つことができたのだろうか。

 近代建築は、その造形や様式で私達の目を楽しませるだけではなく、時に辿ってきた歴史の一端を雄弁に語り始める。けれど、それは鑑賞する側が注意深く耳を傾けなければ聴こえない、声にならない声に乗せられたメッセージのようなものだ。

  • 園内のいろいろ

 グラバー園内で見られるものには洋風建築のほかに、明治時代のインフラや所縁ある芸術作品に関する展示物などがある。歩道に刺さっていた水道共用栓もそのうちの一つだった。

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 明治19年に依頼を受けて来日した技師、ジョン・W・ハート氏は、長崎で近代的な水道を整備するため、ダムの必要性を提示する。はじめは予算が莫大になることで自治体の反対にあったが、紆余曲折の末に工事が決定された。イギリスの機材と部品を用いて完成した水道システムは、専用ダムを持つものとしては日本で最初のものであったとの説明がある。

 共用栓は朝と夕に開栓・閉栓の作業が行われていたそうだが、街でガス灯の火を点けたり消したりする、点消方と似た職業が存在していたのだなと思った。昔はあらゆるものが手動だった。便利な時代に生まれたので、改めて意識しないと近代の暮らしにはなかなか想像が及ばない――。

 ふとリンガー邸の前のベンチに座ると、眼前に長崎の港の美しい風景が望める。明治の日本と、そこを訪れ様々な事業を営んだ商人たちの軌跡が、確かにこの地には刻まれていた。

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空と海

 園の出口には伝統芸能館が門戸を開いていて、長崎くんちで実際に使用された神輿や道具の数々、そして開催時の映像が上映されている。

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四季折々の花

 グラバー園は絵に描いたように典型的な観光地だが、興味がある人にとっては宝の山だ。きっと、次に長崎へ足を運んだ際もスルーすることはできない。できれば旧グラバー邸の工事が終了した段階で、またお邪魔しようと画策している。そう遠くないうちに。