イギリスの首都、ロンドンの街は広い。
これは単なる面積の話ではなく、一概にロンドンといってもエリアによって雰囲気や住んでいる人々が異なるために、まるで都市そのものが一つの国か世界の縮図のように感じられる……という印象から生まれた感想だ。
私自身は初めて英国に長期滞在していた頃から、生活の拠点のほとんどを北部ロンドンに置いていた。住む場所に対して特に強いこだわりがあったわけではなく、単純に自分の出した条件(予算や清潔さ)に合う物件がたまたまそのエリア周辺で見つかることが多かっただけなのだけれど。
ここには北部に広がるハムステッド・ヒースをはじめとし、その端にある17世紀の邸宅や住宅街の隅の博物館、そしてグルジア(ジョージア)料理店について、周辺の散策や施設訪問の記録を残しておく。
参考サイト:
visitlondon.com(イギリス観光庁のサイト)
English Heritage(イングリッシュ・ヘリテージのサイト)
Burgh House(ハムステッド博物館 / バージ・ハウス)
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エリア概要
ハムステッドと呼ばれる地域(ウェスト&サウス・ハムステッドを含む)には、英国にゆかりのある著名人がかつて住んだ家に掲げられる標識「ブルー・プラーク(Blue Plaque)」が数多く存在している。
例えば風景画で名高いジョン・コンスタブル、彫刻家ヘンリー・ムーア、そして後述する心理学者ジークムント・フロイトといった顔ぶれの人物たちがここに住んでいた。
現在でもハムステッドは高級住宅地として知られており、いわゆる文化的な雰囲気を好む人々に非常に人気のエリアなのだ。
この近辺は18世紀ごろから発展をはじめた。その理由のうちの一つには、ミネラルを含む水が沸きだしていたことが広告上で宣伝され、湯治としての効能を求めてやってくる人々が多くいた事実があげられる。
しかしながらロンドン中心部からの距離が離れていたことや(当時の交通網はそこまで発達していなかった)周辺地域が騒がしくなってきたことから、地域の人口はいちど落ち込んでしまった。
その後19世紀に開通した鉄道により利便性が増し、住民や訪問客の数は再び増え、教会や学校などの新しい施設が次々に建てられた。そして1888年、ハムステッドは正式にロンドンという街の一部となったというわけ。
私がかつて短期間滞在していたのは駅周辺であったが、このノーザンラインが通るハムステッド駅はロンドンの中でも最も地中深い場所に造られたものであり、海抜よりおおよそ58メートルほど下に存在している。
エレベーターで改札の階から下に降りた後はさらにいくつかの階段を利用する必要があるので、長期滞在に必要な荷物を持って地下鉄を使った時は疲労を感じた。しかし、タクシーを拾うよりもはるかに安く済むのだから仕方がない。移動手段があるだけありがたいのだ......。
ハムステッドの歴史:History of Hampstead | Burgh House & Hampstead Museum
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ハムステッド・ヒースとケンウッド・ハウス(Kenwood House)
ここはロンドンの中でも緑地の占める割合が多い地域だが、それに大きく貢献しているのが現時点で320ヘクタールほどの面積を誇るハムステッド・ヒース。
高台にあるこの公園からは、セント・ポール大聖堂やロンドン・アイまでもを眼下に見渡すことができる。
晴れの日も小雨の日も犬を連れていたりランニングをしたりする人たちが多くいて、まさに市民の憩いの場という表現がふさわしい。
2017年に公開された映画《マルクス・エンゲルス》は記憶に新しいが、カール・マルクスがかつて英国を訪れていた際、ハムステッド・ヒースは彼のお気に入りの場所でもあったのだ。
訪れた日はあいにくの雨だったが、草地横の道に沿って歩を進めた先に、ブルーベルの群生地を発見した時は心が躍った。
青いカーペットのように地を覆う彼らの姿は、まるで薄暗がりの中でそっと発光しているように思われて嘆息したのを思い出す。そういえばジョージ・オーウェル著の小説《1984》の一場面にもブルーベルは登場していた。
そこから遠くない場所に、綺麗な白とベージュで塗られた外壁が印象的な、大きなお屋敷が佇んでいる。名前をケンウッド・ハウスという。
現在の建物の基礎になった煉瓦の土台は、おそらく17世紀に造られたものだと考えられている。物件の所有者は時代によって移り変わっているが、現在はイングリッシュ・ヘリテージがその管理と修復を担当しており、一般に無料で公開されていた(訪問者は寄付として、図録の冊子やポストカードなどを購入することでそのサポートができる)。
ちなみに上の項で述べたブルー・プラークもこの団体によって設置されているもの。
屋敷の構造や外観は18世紀の建築家ロバート・アダムによって設計されたもので、彼はケンウッドハウスを増改築し、さらに部屋ごとのデザインも考案した。
代表的なのは1階のグレート・ライブラリーと呼ばれる広い図書室で、古い書籍とともに、美しく修復されたパステルカラーの天井の意匠をソファに座って眺めることができる。
ここで鑑賞できるもののなかでは、内装や家具もさることながら、ヨーロッパ絵画の傑作が素晴らしい。
日本でも知名度が高い画家の作品ではレンブラントの《自画像》や構図が面白いフェルメールの《ギターを弾く女》があるが、ほかにもレインズバラやヴァン・ダイクなど、西洋美術に少しでも興味のある人間なら一度はその目で見たいと願う作品が軒を連ねている。
それにもかかわらず、中心部から離れた立地と旅行客の間での知名度がそれほど高くないという要素が重なって、屋敷の周辺もその内部も静かなものだ。特に、数日間のみロンドンに滞在している方々がこちらの方まで来るのは、時間の関係もあり難しいと思う。けれど重点的に洋館や美術作品を見て回りたいならおすすめ。
また、館内にはボランティアの方々が常駐しており、部屋ごとの用途や歴史、かつてここに住んでいた歴代の人間、加えて展示されている絵画や家具などの説明を行ってくれた。
地下鉄やオーバーグラウンド線の駅からは遠いので(ハイゲート駅からは徒歩20分といったところか)、バスの210番か603番を利用し、Compton Avenue/Kenwood Houseという停留所で降りれば簡単にたどり着ける。
ケンウッド・ハウス:Kenwood | English Heritage
また、かつての貴族が収集していた作品を公開しているロンドンの美術館の中には以下のような場所もある。
絵画だけではなく甲冑や銃、陶器などの展示品も非常に充実しているウォレス・コレクションはロンドンの中心部に位置しているので、気が向いたときにでもふらりと足を運びやすい。
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フロイト博物館(Freud Museum London)
精神分析学者ジークムント・フロイトの名は有名だが、彼が死の直前まで過ごしていた家がロンドン、ハムステッドの住宅街の片隅に存在しているのを知っている人間は多くない。
1938年にフロイトがオーストリアからイギリスへと渡ることを決めたのは、ナチス党の手を逃れるためであった。この家を博物館として一般に公開したいと願ったのは彼の娘であるアンナ・フロイトで、彼女自身もその生涯を終えるまでの間、研究をしながらここに住み続けていた。
ロンドンに移り住んでからフロイトが逝去するまでは、わずか1年と少しの短い期間。
晩年の彼はがんによる症状とその治療に苦しんでおり、主治医と娘のふたりに安楽死に関する相談をした後で(娘のアンナは当初この意向に反対していたが)モルヒネの大量投薬を受けることとなり、1939年9月23日の夜中にその生涯を終えたという記録が残っている。
ここイギリスの他にも、オーストリア(彼の生家)とチェコにフロイト博物館が存在しているよう。
建物の右に並ぶ二枚のブルー・プラークはそれぞれがフロイトと娘アンナのもの。
展示されているのは彼らが生前に利用していた家具の一部、蔵書、そして研究に使われていた古今東西の芸術品や工芸品たちである。なかでも印象深かった展示品は、フロイトがここに訪れた患者たちを実際にそこに横たえて話を聞いたという長椅子や、娘に送った翡翠のブローチなどだった。
著名人の住居を改装して作られた博物館や美術館へと足を運ぶたびに思うのだが、遺されている物品たちは、どこか別の場所で展示されているのを見る時よりも、ずっと生々しい印象をこちらに与えてくる。その存在がそこに焼き付いているかのように。
だからこそ、私は人が住まなくなった屋敷を訪れることに興味があるのかもしれない。
ちなみにアンナ・フロイトは子どもの精神分析を専門とした研究者かつ教育者であった。幼少期は、厳しい母親や他の兄弟姉妹たちとの折り合いをつけることが難しいとしばしば感じていたらしく、父親のほうへと親しみの気持ちを向けることが大きかったという。
しばらくの間オーストリアの学校で教師としての経験を積み、生徒たちとのかかわりの中で多くの発見をした後、主に成人した人間の精神を扱っていた父親とは対照的に子供とその情動や思考に大きな関心を持つようになっていった。
当時はあまり重要視されていなかったそれらを、成人のおまけのような位置づけではなく、精神分析のなかで独立した項目として扱った彼女の試みは画期的なものだったのだ。
フロイト博物館へと赴く際には、地下鉄ジュビリー・ラインとメトロポリタン・ラインのFinchley Road駅が最寄りで、オーバーグラウンド線の乗り場も近い。博物館で入場料を支払う際にお釣りが出ないことがあるので、一応ぴったりの額を持っておくと便利かもしれないけれど、あまり心配する必要は無いと思う。
フロイト博物館:Freud Museum London
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ジョージア料理店
北部から少し距離の離れた、サウス・ハムステッドの界隈にこのレストランはある。
Tamada
正直なところ、どうして突然自分がグルジア料理を食べてみたくなったのかをはっきりと覚えていない。確かはじめはロシア料理のピロシキのことを考えていて、そこからボルシチやそれに類する料理の味を連想し、類似の食材を使った何かを試してみたいと思っていたような気もする。
最終的にはダンプリングが食べたくなり、ヒンカリというグルジア料理について知った結果、ロンドンでそれを食べられる場所へと足を運ぶに至った。
全く脈絡がない。
お店のレビューを読むと混雑していることもあるようだが、訪れた時は私達二人ともう一人のお客さんしかいなかった。店内は広くないように見えるが地下にもテーブル席がある。それでは、食べたものについて順に記載してみる。
・Lobio / Blini
詳細の分かる写真がないのだが、奥にある深めのお皿に入っているのがロビオと呼ばれているものだ。これはコリアンダーやニンニクなどの練り込まれた赤い豆のペーストで、今回は温かいものを注文してみた。
後で調べてみたところ、緑色の豆を使っている場合や、冷やして提供される場合もあるそう。コショウをはじめとしたスパイスの効いている感じがして非常に食欲をそそられた。
そして手前にある春巻きのような料理はブリニというらしい。ロシア料理のブリヌイと似ている。ひき肉と玉ねぎがくるまれた生地は比較的やわらかく、以前に口にしたものの中で非常に似通った味のものがあたのだが、名前が出てこない。
個人的な所感だが、グルジア料理には日本人に親しみやすい食材や風味のものが多いと思った。この国は地理的にもヨーロッパとアジアのはざまに位置しているようなところなので、おそらくは食事を含めた文化の発展の過程で、それぞれの特徴を少しずつ受け継いでいるのだろう。それゆえどこかに共通点があってもおかしくない。
・Khinkali
今回のお目当てであるヒンカリ(Khinkali)というものがこれ。
構造は小籠包にそっくりで、ナイフをそっと入れると、中から肉汁がドバっと溢れてくる。もちもちとした生地に包まれているのは豚と牛の合い挽き肉で、それは玉ねぎやハーブ類と一緒に調理されたもの。
聞くところによると、ヒンカリは中の汁を零れないように全て口で吸ってから食べるのが一番おいしいそうだが、なんとなくそうするのは憚られたので普通に切っていただいてしまった。考えてみれば巾着状になっている頭の部分は指でつまむのにちょうどいい場所のように思える。
余談だが、ポーランドをはじめとする東欧の料理にピエロギというものがあり、これも中身は違えど同じダンプリングの仲間で、スーパーで買えることもあり最近はまっている。
生地がもちもちしているという部分はヒンカリと同じだ。
チーズとポテトを中心としたフィリングのピエロギはキャベツと一緒にバターを使って調理すると非常に美味しくなるのに気付いた。
写真はスーパーで買えるピエロギ。美味です。
・Pelamushi
次のペラムシはぶどう果汁を使ったゼリーのデザートで、温かい状態で提供された。
上にかかっているのは砕かれたクルミの粉だ。舌触りは柔らかくとろみがあり、甘さは控えめ。冷やされていないせいか、まるで風邪を引いた日にお粥か何かを食べている時のような気分にもなる。グルジアのワインは美味しいと評判だが、上質なぶどうが多く採れるのも理由の一つなのだろう。
それがこうして、デザートをはじめとした料理にも使われている。
また、このレストランでは出されていないが「チュルチヘラ」という名前のデザートがあり、これはぶどう果汁を砂糖と煮詰め、さらに乾燥させて固くしたものだという。
干されている際の見た目が少しおどろおどろしいので知らなければ敬遠してしまいそうだが、いつか見かけた際には試してみると思う。
グルジア料理を食べるのは初めてだったが、前菜からデザートまで十分に楽しめた。普段の外食の基準からすると値段は少し高めだけれど美味しかったので満足。特に、デザートのぶどうゼリーを取り扱っているグルジア料理レストランはロンドンでもほとんどないようなので、また食べに行きたい。
ハムステッド周辺エリアの現時点での散策記録はこんな感じ。
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ところで、上の項のフロイト美術館からさほど遠くないところにカムデン・アーツ・センターというギャラリーがある。
主にコンテンポラリー・アート、現代の作家の作品が展示されているので、もしも興味のある人がいればぜひ、ふらりと足を運んでみて欲しい。