以下の記事の続きです。
ここは、前回の記事で少しだけ言及したアフラシャブの丘。
今は見渡すかぎり何も残っていないが、昔はサマルカンド(旧名:マラカンダ)の中心地として長く栄えていた美しい場所だったという。宗教や民族の隔てなく、多くの人々が集まり、賑わっていたと伝えられている。
私が訪れた時は風が強く、砂塵や髪の毛が目に入らないようにするのが大変だった。それから、羊たちの落とし物を踏まないように気を付けるのも、だ(至る所にあって避けるのが難しい)......。
13世紀の頃、サマルカンドの平和はチンギス・ハーン率いるモンゴル軍の侵攻によって破られた。強固な城壁に守られた街は、生命線となる水道を止められたことにより崩れ、戦いで多くの人間が殺されたのだと説明にある。足元に広がる地面を見て、ここに染み込んでいった血液の量を考え、首の後ろがムズムズする感覚を味わった。
流れた後の血はどこかで水に出会い、巡り巡って、この地の人々の喉を潤しただろうか。
アフラシャブの丘で出土したものは、付近の博物館に収蔵されている。
目玉の展示品は紀元前7世紀のフレスコ壁画。
剥げたり欠損したりしてはいるものの、希少な青い塗料の鮮やかさだけは2500年以上の時を経ても変わらず、サマルカンドに建つモスクや廟を飾るタイルと同じ輝きを放っている。私は、青は人を惑わす色だと思う。それが薄いものであっても、濃いものであっても。
この丘の南にあり、目を凝らすと微かに見えるのが、信仰心あつい人々も観光客も等しく魅了する美しい墓所――夕刻のシャーヒ・ズィンダ廟群だった。
参考サイト:
UNESCO World Heritage Centre(ユネスコ世界遺産のサイト)
シャーヒ・ズィンダ廟群
同じネクロポリス(埋葬所)とはいえ、初夏に観光したエジプトのサッカラ、そしてギザとは随分と趣が違う。
時代も宗教も異なるのだから当然かと思うかもしれないが、現代では国境を越えても、墓というものの形式はわりと似たり寄ったりだ。ここウズベキスタンの現首都・タシケントでも墓地を訪ねたが、肖像が墓石にあしらわれていたのが目新しかった以外、特筆すべきものは見受けられなかった。
ウルグ・ベクの時代に建てられた入口のゲートをくぐると、上へと続く階段に迎えられる。一般に『天国の階段』と呼ばれているものだ。段数を数えながら上り下りし、その数がどちらも同じであれば、その名の通り天国へ行くことができるという。
噂を聞きつけてか、親に連れられた小さな子供たちが、楽しそうに声を上げてカウントをしていたのが印象的。気になる結果は、一体どうだったのだろう。
お祈りのルーティンを終えた人々が、彼らに続いて階段を下り、廟を後にする列とすれ違いながら上へと向かった。やがて眼前に広がるのは、本当にここが天上の世界なのではないか? と思わず錯覚してしまうような光景。日没前の時間帯ということもあり、付近には一日の中でも一番静謐さを湛えた空気が満ちていた。
私達外国人の耳にはどこか謎めいた響きを持つ「シャーヒ・ズィンダ」の名だが、これは7世紀頃の、とある王様にまつわる伝説に由来している。
曰く、《預言者》ムハンマドの従弟、クサム・イブン・アッバースがモスクで祈りを捧げていたところ、当時のサマルカンドではまだ隆盛だったゾロアスター教の信者に目を付けられ、首をはねられてしまった。にもかかわらず彼は何事もなかったように礼拝を続け、最後には自分の首を持って深い井戸へと赴き、底に潜っていったそうだ。
その先で永遠の命を得た彼は今も生き永らえ、有事の際にはまた地上に現れるのだという。
クサムを指して呼んだ名前が「生ける王様」で、それがシャーヒ・ズィンダという言葉が持つ意味だった。彼を祀るクサム・イブン・アッバース廟も敷地内に存在しており、ここサマルカンドでも最も古い建造物のうちの一つに数えられる。前述したモンゴル軍の侵攻にも耐え、変わらずその絢爛な内装で訪問者を魅了していた。
天井の感じが他の廟とは異なっている。
シャーヒ・ズィンダ廟群を歩いていると、ここは一つの小さな住宅街のようだと思う。
一直線に並ぶ廟の入り口や配置は玄関じみているし、墓石には見えない平らな石の並ぶ広場は公園に見えなくもない。ベンチもある。違うのは、夕方になっても晩御飯の匂いが家々から漂ってこないところだ。しかし人の気配はする。
日もとっぷり暮れた頃、夜毎それぞれの持ち場に眠る彼らが起き出して、敷地内を歩く姿は見てみたい。うっかりそんなことをしてしまったら、生きて帰ることができなさそうな気がするが。
また、通路と呼べる通路は一本しかないのに、なぜか迷路を彷徨っている感覚にふと陥るのは、おそらく青いタイルが描く数々の文様のせいだ。終わりや始まりがどこにあるのか分からない図に目を奪われて、気付けば視線だけではなく足までもがふらついている。
実際、ウズベキスタン旅行中に撮った写真を見返していて、一目でどこのモスクや廟だったか判断するのは難しい。どこで見た何の装飾なのかが、自分の中でどんどん曖昧になっていく......。
下の写真の象徴的なドームはコシュ・グンバズ廟。ウルグ・ベクの師のものだと言われている。向こう側に空や民家を望んで、まだ足が地上についていると実感し、ホッとするような少し残念なような気がした。
私は『天国の階段』を上るときも下るときも、段数は数えなかった。
シャーヒ・ズィンダを出て丘の北側、その先へと向かえば、15世紀にウルグ・ベクによって建造された天文台の跡地が見えてくる。
かつて、レギスタン広場にある彼のメドレセ(神学校)でも盛んに行われていた、天文学の研究に大きく寄与した施設の名残だ。
ウルグ・ベク天文台跡
ティムールの孫ウルグ・ベクは、天体とその巡りに大きな興味を持っていた。
いわゆる天文学だけではなく、占星術にも傾倒していた時期があるようで、実際にその占い結果を踏まえて行動することもあったようだ。道の途中には彼の像が銀河を背景にして佇んでいた。
以前あった立像から姿勢が替えられたのは、ずっと立っていると足が疲れてしまうから、という理由らしい。
サマルカンド天文台と呼ばれていたこの施設だが、彼の死後に大きく破壊され埋められてしまった。
天文学により星の運行を知り、時間を計る行為は未来予知を連想させたため、それがイスラム教の教義に反する――と感じた保守派が、敵愾心を募らせた結果だと考えられている。今では、その跡地が小さな博物館となっていた。
かつてはここに、高さ約30メートル、半径約46メートルにもなる円形の建造物があったことが、俄かには信じがたい。
それに望遠鏡もない時代、星々をつぶさに観測し、時には古文書やここではない国で記された文献も併せて研究する、貪欲さ。その好奇心がもたらした豊富な研究結果は、現代の最新技術とも拮抗するほどのものだった。
例えば、ウルグ・ベクは1年間を365日と6時間10分8秒、と計算したが、これはいま割り出されている数値とほんの1.6秒しか違わない。また、地球の赤道傾斜角の計算はコペルニクスの出したものよりも正確だった。
上の写真は地下の観測施設の一種で、赤道と直角になるように引かれた6分儀の溝だ。天文台の当時を偲ばせるものは、建物の基礎部分とこれくらいしか残っていないのが非常に惜しまれた。
砂漠周辺の国に生きた人々は、月や星に並々ならぬ愛着を持っていたのだろうな、と私はいつも考えている。燃えるような昼の炎天下から逃れて、息をつける夜の時間。空に浮かぶ天体は、何もない広大な土地で旅人を導く目印であり、安らぎの象徴でもあったはずだ。
顔を上げた人々は、まるで星々にそっと見守られているかのように感じたかもしれない。
ふと、以前訪れたエジプトでは古代、太陽神が信仰の中心にいたことを思い出す。絶えず昇り、そして沈むのを繰り返す太陽は、不滅の蘇りを強く連想させる存在。死後も滅びぬ魂を夢見て、多くの人間が祈りの船とともに墓に埋葬され、長い長い旅に出た。
ところ変われば同じものでも見方が変わる。
古代の彼らが見上げた天の延長線上に私達の眺める空もあって、そこにあるものは、ただそこにあるだけだ。観測する側の意識だけが時代や地域ごとに移り変わっていくのをさらに上から見ている存在も、もしかしたら居るのだろうか。
普段は知覚できないだけで。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
次回の記事の内容は大君ティムールの故郷、シャフリサーブスについてです。