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彷徨する自由帖

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遺志、あるいは石の亡霊|増える建物

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モン・サン=ミシェル

 数年前フランスを訪れた際、考えていた取り留めのない話。

【遺志、あるいは石の亡霊】

 あるとき、「建造物の増殖」としか表現できない現象が頻発するようになった。

 はじめにそれを観測したのは、欧州の片隅にある小さな国の農夫。いわく、街の教会の塔の高さが徐々に増していっている、とのことだ。

 彼は朝の決まった時間に塔の階段を数えながらのぼり、頂上の立派な鐘の傍らで街を眺める行為を日課としていた。寡黙で真面目な男で、生まれてこの方、国からは一歩も出たことがない。妻子も無いが一匹の犬とともに暮らしている。そんな人間がある日、血相を変えて市庁舎に飛び込んできたというのだから、これはただごとではない。彼は今にも窓口の台にかじりつきそうな勢いで「教会の塔の階段が、一日一段ずつ増えていっているんだ!」と叫んだそうだ。

 何を馬鹿な――と世界中の人間が思っていたが、これをきっかけにして世界のあらゆる場所でこの現象が観測されるようになった頃には、異論を挟むものはすっかり居なくなった。

 古代遺跡。

 現在も機能している近世の宮殿。

 先の戦火を逃れた大聖堂。

 さらには、名もなき民家までも。

 各国で急遽立ち上げられた調査隊により、造りの歴史的建造物が持つ階段や塔、窓、果ては表面に施された装飾などの増殖がかなりの数認められたが、その部位や程度は建物によって大きく異なった。木造のものにはこの現象が一切みられないのが興味深い事実だ。そして、博物館に展示されている柱や破風など、建物の一部分にはそれ自体で増殖しながら、もとの形式とは違う独立した「何か」を形成し始めたものがあるらしい。世界中の関係者や研究者は対応に追われている。

 加えて最近は、増殖する建物とそうでないものの違いについても盛んに議論がなされるようになった。それには設計者の意図や、建築様式だけではない何かが深く関わっているようだが、詳しいことはまだ分からないとテレビに映ったキャスターがしゃべり続けている。

 そっと画面から目を逸らし、ごちそうさまと家族に告げて食器を片付け、自室へ続く階段へ足をかけた。私は例の農夫とは違い、家にある階段の段数を数えたことなどない。

 ところで今、私の部屋にある小さなモン・サン=ミシェルの模型が徐々に増殖しているようなのだ。

 具体的には、尖塔の高さや外壁の枚数が増している。いままで実際の建造物以外――例えば建物の図面や複製――にこの現象は観測されていないはずだが、どういうわけなのだろう。数年前にかの地で購入したこの模型が、現在の私の心情に「共鳴」しているとでもいうのだろうか。

 これには近頃片付けた面倒な案件が影響している気がする。数日前に見たあの人間の顔を忘れたくて、そこから遠ざかりたかったから、自分を守るように強固な壁を築き始めたのか。

 あるいは――、

 いや、そうではない。おそらく。

 ともあれ、修道院であり要塞でもあったこの建物の模型はより高く、より堅牢に、何らかの祈りを孕んだ一種の石棺と化していっている。私の机の片隅で。どこかの研究機関にこの現象を報告すべきかと少しの間だけ考えてみたが、面倒になってしまったので、明日の学校のための準備をしてからそっと布団へ潜り込んで電気を消した。