いままで、殊更に身構えて何かを愛そうと思ったことなんてない。それはそもそも不可能なことだ。努力して愛そうと念じた時点で、残念ながらもう本物ではなくなってしまう。
だいたい、ふと気が付けば心の側がすでに、勝手に対象を愛していて、にわかに私の意思が介入する余地はなくなる。
この実感が存在しているのにもかかわらず、愛など見たことも聞いたこともない、と豪語するのには本当に無理があった。それでも、たとえ無理があったとしても、せめて貫けたならいいと願っていた。
無駄な、叶わぬ夢であった。
◇ ◇ ◇
人や物、その他を好きになることは、程度はともかくその対象に対して膝を折ること。他の誰かがどこでどう定義していようと、私の世界の内ではそれが敗北であるのだと、はっきり認められている。
でも、あまりにも自然に捧げてしまう。心を砕くなり、燃やすなりして供物を捧げようとしてしまう。生まれた時から——むしろ、生まれる前から——適切なやり方を知っていたみたいに、感情は、外から与えたのではない姿を形作る。
とても抗えない、驚くほどの強さをもって。
それでもなけなしの矜持だってきちんと抱いているものだから、敗北を嫌うそれにはいつも、立て、と罵られていた。ありがたいことに。
当の私の意識としても自覚的に跪くのが嫌なので(だってこんなに屈辱的なことってない)、とりあえず愛はよくわからない、という体で極力致命的な傷を作らず、穏便に最後まで逃げ切ろうと試みていたわけだった。
絶対に追いつかれたくない。この闘争はたぶん、先に死んだ方が勝ちだから。
なのに、そこに「勝ち負けじゃない」の衝撃を落とされて以来、果たしてこの世界で何をどうすればいいのかさっぱりわからなくなってしまい、今に至っているような気がする。
「全」と「無」のあいだには距離があって、そこにも「どちらでもない何か」が存在できる、と真摯に解かれても、悲しいかな全然理解が及ばなかった。
勝ち負けではないことを知っている……と自信満々に言うくらいなら、実際に目の前で、再現して見せて欲しかった。他ならぬ君の手で。できないのなら、別に言葉にしないまま、その辺に埋まっていて欲しかった。
◇ ◇ ◇
もともと持っていたと判断できる性質と、やがて抱くようになった明確な願望、このふたつの相性が悪すぎるため常に大変な事故を起こしているという感が否めない。本来なら、自分の足で歩き続けられるだけの強さを帯びた魂ひとつあればよく、何にも心動かされたくないはずなのに、結局いろんな人や物を好きになる。
なる、というか、なってしまう。
物ならまだいい。人間には、こう言わなければならない。
君を好きになりたかったわけじゃない。
別に、君を好きになろうと思ってそうしたわけでは、ない。これは私が望んだことじゃない。
それに対して頷く相手の目に湛えられたものと黙ってしばらく向き合えば、要するにこれに負けたんだよ、お前は、と自己の分身に教えられているようで、ひどく情けなくて惨めだ。
何かを愛すると、その存在のために文字通り、本当に「何でもしてやりたい」と思わされてしまう。私はそう感じている時の私自身が、嫌いで恐ろしくて仕方ない。ゆえにできるだけ反対の言動をとらなくてはと躍起になる。
心から好きだと思える人と一緒にいると、反比例して自分が嫌いになっていく。その事実について君はどう思う、と相手の側に尋ねてみる勇気もない。なぜなら、自分の嫌いな自分の方をもしも好かれていたら、と思うと、目の前が薄暗くなるので……。
私は私がどう生きていきたいかを真面目に追求したいし、それを大切にしたい、なのにどうしてこうなってしまうのか。
何かを愛せる性質は実に厄介なもの。
◇ ◇ ◇
上記の物事にうまく折り合いをつけられないから——つけられないから、だから一体何だというのだろう。たとえなけなしでも、大切な矜持を失うくらいなら、生きていたくない。だってそうなってしまったのなら、結局死んでいる状態と変わらない。
それが理由でいつも不可視の、不本意で、不毛な戦いがある。
私の心を容赦なく奪おうとしてくる人間や、物事との。あるいは世界との。