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彷徨する自由帖

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皆、単純に忙しい、という事実 - 選ぶことと選ばれること

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 成人したり、働き始めたりしてから新しく人と友達になるのは難しいと一般に言われる理由について、実際に成人してから親しくなった友達と話しながら考えていた。

 たぶん多くの人が、自分の中の「親しさの優先順位」を幼少期よりもはっきりさせているのが一因ではないかと思う。

 要するに、もうその時点までに「大切な人間のための枠」が埋まっているから、いまさら新規参入するのはかなり難易度が高い……と。

 

 

 みんな、いつも自分のことで忙しい。

 あるいは「他の何かのために動く自分」のことで、忙しくしている。

 そういう世界に生きていると、たとえ名前が付けられなくても、誰かにとって大切な存在であれることは、価値という言葉では語れないほど奇跡じみていると思う。すなわち誰かの心の中の、重要な位置を自分が占める……ということ。

 もしかするとそこに元からあったかもしれないものを、自覚的に、あるいは無自覚のうちにも押しのけて。

 

 万物、万人は例外なくこの世に存在する有象無象のひとつ。

 けれど「私にとってあなたは決してどうでもいい存在じゃない。だから、此処にいてほしいのだ」とはっきり言えるだけの何か、それを得ることが人間関係を構築する意義の最たるものなのかもしれない、と思わされる。

 どうして他人と関わるのか?  の、根幹を考えると。

 生きていると、断続する自分の意識の隙間に、ふと誰かの面影が差し込まれ、長く残ったりあっさり消えたりする。それ自体がまず現象としておもしろいことだ。そういう面白いことがなければ「人間」があまりにも退屈で、わざわざ人間らしい生活というのに照準を合わせて暮らしているのが馬鹿馬鹿しくなってくるから、適度にあってほしいとは思う。友人、家族、恋人、その他。

「人生を通してこの人間に会えて良かった」と思える何かを、生きている間に築けるかどうか。

 

 けれど同時に疲労も感じているのだった。

 結局それが、選ばれるか、選ばれないか、という価値観の補強に終始してしまうことに対して。

 

 忙しく、せわしなく生きていく中で、何かを大切に思う。

 すると心の容量がその「大切なもの」に割かれて、今までしまっていたものの中で優先順位の高くないものから切り捨てられ、別の「どうでもいい」という場所に格納される。やがて消えていく。

 自分がそうするのと同時に他人もそうしている。誰かを重要だと判断したとき、自然とそれ以外の人間を、意識の端に追いやっている。

 すべての存在を同じ熱量で愛することはできない。仮にどうでもいいものなどなかったのだとしても。後になって、やっぱりあれも大切にしたかったのに、と悔やむのだとしても。

 取捨選択をしたのだ。

 

 自分以外の人間がひとりでも存在する世界(これも社会だ)では、その人間をどう扱うのか選ばされる。無視するのか、遠ざけるのか、近付くのか、より親しくするのか。
 誰かの側にいると決めるのは、その誰かを「選ぶ」ということで、他を「選ばない」ということ。

 

 ……こういう当然の、生きていくうえで逃れられない事実自体に疲労を感じるので、それが要するに「積極的な生存に向いていない性質」なのだろうと考える。

 当然のことを抵抗なく当たり前に受け入れられ、満足ができるなら、まったくこんな風には思わないのだろうから。