chinorandom

彷徨する自由帖

MENU

中島敦《狼疾記》- 人生の執拗低音として常に鳴り響く虚無感、不安と「臆病な自尊心」|日本の近代文学

※当ブログに投稿された一部の記事には、Amazonアソシエイトのリンクやアフィリエイト広告などのプロモーションが含まれています。

 

 

 

参考・引用元:

狼疾記(青空文庫)|中島敦

 

 

 山中を、1匹の野生のオオカミが全力で疾走している……。足音と激しい息遣いを周囲に響かせて、森の藪の奥を目指し。

 私が以前「狼疾記」という題名を目にして、すぐ頭に浮かんだのはそんな情景だったが、実際の意味は異なっている。狼疾、の熟語は心が乱れているさまや、ものが乱雑になっている状態をあらわす。また、自らを省みることができない人間を指してそう形容する場合もある。一説によると、本当に病んだオオカミの振る舞いが由来だとされているらしい(学研漢和大字典)。

 中島敦の短編「狼疾記」は、それにまつわる孟子の言葉の引用から始まっていた。

 

養其一指、而失其肩背、而不知也、則為狼疾人也。

 

 たった1本の指に意識を向け、そのせいで、より大きな肩や背を失うことになってもなお気が付かずにいる者。些事にかまけて大局を見失う様子。それを、狼疾と呼ぶのだと。

 作中では、語り手の「三造」が。加えて彼に重なる著者の中島敦自身も、本人の言葉によれば、狼疾に囚われた者にあたるのだろう。

 では彼の狼疾は、どんな種類のものだったのか。そして、現代文の教科書によく取り上げられる同作者の「山月記」とこの短編との関連は、一体どの部分に見られるのだろうか。

 

目次:

 

《狼疾記》中島敦

  • 不確かな世界と存在への懐疑

 三造はいつも考えていた。自分はどうしてこの世界に、他ならぬこの「自分」として、生まれてこなければならなかったのか? と。

 俺という存在が、どうしてもこの俺でなければいけない謂れは、あるのかないのか。

 

その頃三造はこういうものを――原始的な蛮人の生活の記録を読んだり、その写真を見たりするたびに、自分も彼らの一人として生れてくることは出来なかったものだろうか、と考えたものであった。
確かに、とその頃の彼は考えた。確かに自分も彼ら蛮人どもの一人として生れて来ることも出来たはずではないのか?
そして輝かしい熱帯の太陽の下に、唯物論も維摩居士も無上命法も、ないしは人類の歴史も、太陽系の構造も、すべてを知らないで一生を終えることも出来たはずではないのか?

 

 その問いに完全な答えを提供できるものはないし、誰にも、何にも、整然と理由を説明することができない。また、現在目に映っている周囲のものが、なぜそのような形を取っているのか…… 根拠となる理屈を並べたところで「では、そもそもその理屈がこの世界に存在するのはなぜなのか」への答えには、決してならないのだ。

 自分の意識が宿っている(ように思える)自分の身体。親があり、そうして己が生まれたことの、運命や偶然とも呼べる巡り合わせ。

 ゆえに何かがひとつ違えば、異なる惑星や、異国や、あるいは同じ場所に住んでいるまったく別の存在として、自分が誕生する可能性も実はあったのではないか。

 どうして、自分は現在の自分として在るのだろう。自分が自分でなければならない理由はないのか。本当に成り行きの、偶然の結果であったのか。その疑念は彼の頭の中に常にあった。

 

周囲の凡てに対し、三造は事ごとにこの不信を感じていた。
自分を取囲んでいる・あらゆるものは、何と必然性に欠けていることだろう。世界は、まあ何という偶然的な仮象の集まりなのだろう!

 

 何かがこの世界に存在すること、また存在自体の不確かさは、人間が己の意思とはまったく関係のないものによって規定され、支配されているような感覚を抱かせる。偶然なのか宿命なのか、得体の知れない現象としての誕生。

 私達は自分がどのように生まれてくるか選べない。元がどんな姿形でありたいかも選べない。しかし、ただ生命は地球上にあり、生まれては死んでいく。なぜ、という根本的な理由を宗教以外の場所には見いだせないまま。

 その恐ろしさ。居心地の悪さ。

 

 そういった「形而上的な問題」について一切考えなければいいとか、とにかく実生活のみを勘定に入れて行動すればいいとか、思考を停止する選択肢を簡単に選べるほど三造は馬鹿ではない。思慮の深さも持っている。

 古今東西の著名人が残したどんなに前向きな言葉に触れたところで、存在に対して「なぜ」と問い続ける、胸の内の声は消えることなどなかった。

 

その他、ジイドの『地の糧』だの、チェスタアトンの楽天的エッセイなどが、何と弱々しい声々で彼を説得しようとしたことだろう。
しかし、彼は、他人から教えられたり強いられたりしたのでない・自分自身の・心から納得の行く・「実在に対する評価」が有ちたかったのだ。

 

  • 根源的な虚無感

 上の懐疑心と世界への不信感が、どこで何をしていてもふとした瞬間に顔を出す、根強い虚無感へと繋がるのだった。

 三造が作中で主調低音(グルンド・バス)と呼んでいるもの。音楽用語では執拗低音や固執低音ともいい、文字通り、低声部に置かれた同型の音を何度も繰り返す演奏を指す。

 生活の中で常に拭い去れない虚無感の表現としては、かなり的を射たものではないだろうか。身に覚えがある人もきっと少なくないだろう。普通に楽しい時間を過ごしていたはずなのに、突然何もかもが虚しくなったり、意味のなさに絶望してしまったりする。

 実のところ虚無感の音色は常に心に響いている。ただ、その音に耳を向ける場面があるか、ないかの違いだけ。三造が虚無に気が付くきっかけとなったのは小学4年生の折、あるひとりの受持ちの教師が口にした事柄であった。

 遠い未来には、おそらく地球という惑星も、太陽も滅びるであろう……という話だ。

 

地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢が出来た。ところが、そのあとでは太陽までも消えてしまうという。太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星どもが廻っているだけになってしまう。
それを考えると彼は堪らなかった。それでは自分たちは何のために生きているんだ。

 

 自分はいつか死ぬし、他のあらゆるものも時が来たら死に絶え、脈々と受け継がれた物事であっても遠い未来にはことごとく消え失せる。生き物だけではなく星にも寿命はあるのだ。

 どんなに積み上げたものも、いつかはすべて無くなる。

 そこに何らかの意味や理由があればまだよかったものを、それは誰にも把握し得ないのだという。万事が得体の知れない不確実な世界。理解できないのなら理解できないなりに「人知の及ばない大きな存在」へ身を任せてしまいたいが、それすらできないのだから行き詰まる。

 この「世界に対する不信」はもはや観念論というよりも、感覚として、己のうちにこびりついているのだと三造は考えた。

 

 

 

 

自分は死んでも地球や宇宙はこのままに続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んで行ける。それが、今、先生の言うようでは、自分たちの生れて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか。
本当に、何のために自分は生れて来たんだ?

 

 この虚無感には「そこから目を逸らす」以外の救いが存在しない。ゆえに、物事を真正面から真摯に考える人間との相性は、すこぶる悪い。下手を打つと実生活にも身が入らなくなる。

 世の中の多くの人間は、考えても仕方がないことは考えない、という処世術で、日々をどうにか平穏なものにしようと試みている。しかし、その欺瞞を良しとはできない場合どうしたらいいのだろう。

 他人が大して気にしていない事柄に頭を悩ませている三造は、自分はどこかに不具合のある、異常な人間なのではないかと疑った。同時に、酒や恋愛で身持ちを崩す人間は沢山いるのだから、虚無感で身持ちを崩す人間も必ずいるはずだろう、と思うこともあった。

 彼が作中、博物標本室に座って読んでいる小説……フランツ・カフカの「窖(あな)」(現代の邦訳だとタイトルが「巣穴」と表記されていることが多い)の内容は、その強迫観念に重なる。何か、正体の分からないものに常に脅かされ、危険につきまとわれているような心。

 

アルコオル・ランプ、乳鉢、坩堝、試験管、――うす碧い蛍石、橄攬石、白い半透明の重晶石や方解石、端正な等軸結晶を見せた柘榴石、結晶面をギラギラ光らせている黄銅鉱……
(中略)
それら無言の石どもの間に坐って、その美しい結晶や正しい劈開のあとを見ていると、何か冷たい・透徹した・声のない・自然の意志、自然の智慧に触れる思いがするのである。

 

 個人的には上の標本室の描写も好き。

 不確かな世界にあって、自然物が何らかの「法則」と呼べるものに従って形成された痕跡を見ることができるのは、ある意味では小さな安寧をもたらす。石の結晶、整った姿。植物の細胞の並びや、葉っぱや花びらの生え方。

 得体の知れないものにすべてが支配されている恐怖と虚無感は、そういった自然物の美しさに惹かれている瞬間だけ、人知を超えて世界を規定している「何か」への信頼に似たものに変わる。しかし、すぐに幻想として失われてしまう。

 

  • 「山月記」との関連 - 臆病な自尊心

 さて、この三造なのだが、どうやら女学校で博物の講師をしているらしい。同じく女学校に勤めていた時期のあった著者、中島敦本人と重なる。

 学問における名誉の獲得と名声を求めるよりも、生活の安定の方を優先した選択を、三造自身はうじうじした生き方だと言っている。

 そして彼はまた、臆病な自尊心についても語った。さながら、「山月記」で心情を吐露した李徴のようにだ。

 

今に至るまで治りようもない・彼の「臆病な自尊心」もまた、この途を選ばせたものの一つに違いない。
人中に出ることをひどく恥ずかしがるくせに、自らを高しとする点では決して人後に落ちない彼の性癖が、才能の不足を他人の前にも自らの前にも曝し出すかも知れない第一の生き方を自然に拒んだのでもあろう。
とにかく、三造は第二の生き方を選んだ。

 

 自分の虚栄心を自覚する彼は、どんなに優れた著作を読んでも満たされることのない心の隙間が、己に向けられるちょっとした賛辞・褒め言葉によって確かに埋められる感覚に気が付き、愕然とする。虚無感に囚われている俺は、一方で、そんなにちっぽけなものを求めずにはいられないものなのかと……。

 同時に、そんな風に周囲から認められたい思いがあるのならば、なぜ学校の生徒や同僚以外に他人と接触しない、半ば隠遁のような生活に身をやつしているのだろうかと疑問を抱く。

 そう、そこに臆病さは隠れている。世間には知られたい。だが、世間に出れば、自らの才能の欠如を無様に露呈してしまうかもしれない。誰にも評価されないことが恐ろしい。ならば世間に出なければ、嘲笑されることもないではないか、と。

 俗に交わることを嫌った李徴の「臆病な自尊心・尊大な羞恥心」は三造の中にも巣食っていた。

 

オデュッセイアと、ルクレティウスと、毛詩鄭箋と、それさえ消化しかねるほどの・文字通りの「スモオル・ラティン・アンド・レス・グリイク」と、それだけで生活は足りると思っていた俺は、何という人間知らずだったことであろう!
杜樊川もセザアル・フランクもスピノザも填めることのできない孔竅が、一つの讃辞、一つの阿諛によってたちまち充たされるという・人間的な余りに人間的な事実に、(そして、自分のような生来の迂拙な書痴にもこの事実が適用されることに)三造は今更のように驚かされるのである。

 

 三造は李徴と違って、虎に変わってしまうようなことはなかった。

 しかし作中で「人間は竟に、執着し・狂い・求める対象がなくては生きて行けないのだろうか」と脳裏でつぶやいているところを見ると、もしかしたら虎に変わってしまうくらい、熱烈に何かに狂いたかったのかもしれない。

 狼疾は字面の如く、病んだオオカミのように心を食い荒らす。

 どんなに内心でもう一人の自分との問答を重ねたところで、葛藤は消えはしない。

 根源的な虚しさが恐ろしい。世間に自分の名を知らしめ、才能を評価されたい、でも賞賛されなかったらと思うと1歩が踏み出せない。

 

その他の場合でも、何故もっと率直にすなおに振舞えないんだ。悲しい時には泣き、口惜しい時には地団太を踏み、どんな下品なおかしさでもいいから、おかしいと思ったら、大きな口をあいて笑うんだ。
世間なんぞ問題にしていないようなことを言って置きながら、結局、自分の仕草の効果をお前は一番気にしているんじゃないか。

 

 自分をこう責め苛む声に、三造は悩み続けた。

 李徴は、虎になった。

 そして中島敦はパラオから帰還した後、自分の著した2つの短編(「山月記」と「文字禍」)をあわせた「古譚」が、幾人かの推薦で雑誌「文學界」に掲載されたことを知る。その存在がようやく世間に認知され、少しずつ名声が高まっていくきっかけとなる出来事だった。

 

「狼疾記」はパブリックドメイン作品で、以下のリンクから全文が読めます。

中島敦 - 狼疾記 全文|青空文庫

 

 紙の本はこちら: