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彷徨する自由帖

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病的な飽き性による驚嘆すべき「ブログ継続5年目」の感慨

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 いつも読んでくださっている皆様へ、明けましておめでとうございます。

 2023年の目標、具体的な計画など全くありませんが、もうすぐ外部サークルの同人誌に寄稿したエッセイと、文学フリマ京都(1月15日・京都市勧業館 みやこめっせ)での販売予定のお知らせができると思います。告知の際はぜひご覧ください。

 また、当ブログは本年で開設から5周年を迎えました。

 今年も何卒よろしくお願いいたします。

 

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 ……周囲を見回してみると、自分と同じ時期(2018年1月)にブログを作成して現在も変わらず書き続けている人はほとんどおらず、残ったわずかな顔ぶれを認識して感慨に耽った。

 私も相当な飽き性のはずだけれど、こうしてその都度言葉を綴る行為だけは絶やさずに続けている。そして、今後もやめられそうにない。昨年の記録を読み返してみても分かる。

 だいたい頭の中の散らかりようがこういう感じなので、片付けるためには何か書かなければと……。あと単純に空想や妄想が多い。魂がいつでもどこへでも飛んでいってしまう。

 

 

 

「昨日はあれほど欲しかったものが、今日になってみると、もう欲しくなくなる」

 

 そういう難儀な性質を人格に内包しているみたいで、もっとひどい場合では、例えばほんの10分前に死ぬほど実行したかったことをいざやろうとすると、もう考えるのも嫌になってしまう。ちなみに理由はない。この側面のせいで、自分自身と仲良くするのがあまりにも大変なのが、本当に滑稽でおかしい。

 異常。異常で、病的で、厄介な、どうしようもない飽き性。

 10分どころか下手を打つと30秒で何かに飽きる。

 

 たまに旅行をするのだが、それで困ることも多いのだった。

 出発直前に「休みの日なのに朝起きなければならなくなるのは狂う」「やめたい」「どうしてこんな旅程を計画したのか思い出せない」と後悔する。目的地に着く直前になってやっと意識がはっきりし、だんだん散策が面白くなり、現地で知った事柄を早く書き留めたくて投宿し、まだここにいたいなと客室で思いつつ、しかし次の日になるともう家に帰りたい。

 一体なぜなのか……。分からない。

 そして多分、今後もずっと分からないまま。


 自分の根幹には生来の飽き性と「どんなに好きなことであっても休みなく毎日連続ではやりたくない」という謎の意識があり、かつ一点集中型で、何かを並行してこなすのが苦手らしかった。一度に沢山の行動はできない。

 それゆえ本しか読まない日、長く寝るだけの日、書くだけの日、考えるだけの日、外食したり遊んだりするだけの日……などがそれぞれ独立して必要になってくる。会社の仕事をしながらなので難しいけれど。

 最近は慣れてきて、出勤する日でも帰宅後に取り組むことをひとつかふたつに絞り、ずるずる夜更かしをしないようにしている。本来なら遅い時間になるほど何かに集中できる側なのだが、それを常態化すると、今度は会社に行けなくなるので……。

 選択は生活を成り立たせるための苦肉の策。

 

 加えて「継続が苦手」とはいっても、いわゆる刹那的な楽しみにはあまりのめり込めず、なおさら虚無を感じやすいので、どちらかといえば深く掘り進められるものの方が趣味として好きだった。魂の栄養になる。

 だから本を読むのかもしれなかった。刹那的でないもの。好奇心もさることながら、血ではなく知の、連綿と続く継承への興味は尽きない。

 

 書を紐解く。

 数十年、数百年、千年以上前に書かれた誰かの言葉に現代の私が触れられるなんて、こんなに面白いことは他にない。

 書を紐解く人を見るのも好きだ。

 ページを開いて、決して単なる知識ではないものの深みに向かい合っている人の顔には、ひとつの真実がある。外を眺めている時の真実とも、何かを食べている時の真実とも、誰かと話している時の真実ともまた異なるものが。

 それは別の場所へ移された途端にフッと姿を隠してしまうけれど、無くなりはしない。

 

「生物でいるのが本質的に徒労だから飽きた」と感じた瞬間に図書館に行き、まず読み切ることなどありえない数の本を片端から貪るとか。

 あとはまだ実際に体験していない事柄、まだ行ったことのない土地や、見たことのないものが存在しているのに、飽きるなんておかしい、と自分を「説得」する瞬間はよくある。

 問題は虚無を抱きながら、自分がどういう人間になりたいのかだった。どんな人間なら、その続きを生きてみたいと思うか。私は自分の知的好奇心に従いたかった。

 

 まだ、出会っていない存在が沢山いる。

 そして言葉の寿命は、人間の肉体と精神よりもずっと長い。

 

 

「次」は誰の言葉と出会えるだろう。

「次」に私の発した言葉を受け取ってくれるのは、いったい誰だろう。

 途方もなく時間がかかる行為だ。そうやって、はるかな時間や空間を越えて交信を行うのは。

 だからほら、まだ知らぬ誰かに届くまで、これに飽きるだなんてありえない。予想の話ではなく、実際に不可能だからそう言える。

 

 

 まだ見ぬ「あなた」に出会うまで。