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彷徨する自由帖

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F・ボーム《オズの魔法使い》エメラルド・シティの着想源 - 白の都(White City)と緑のゴーグル(Green Goggles)

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参考書籍:

 

 ここでよく言及しているH・C・アンデルセンや夏目漱石など、近代に生まれた作家はその時代の影響下にあって、現代のものとはまったく異なる「黎明期・最盛期の万国博覧会や内国勧業博覧会」を目にする機会がしばしばあった。

 一部の作品を紐解くと、それらの風景、あるいは登場人物達から見た印象などが、形を変えて記されている場面にしばしば遭遇する。

 名作《オズの魔法使い(The Wizard of Oz)》を世に生み出したアメリカ出身のライマン・フランク・ボームも、自分自身の過去の経験や、シカゴで目撃した万博の様相を組み合わせてイメージを膨らませ、物語世界に彩りを与えた作家のひとりだった。

 

 単色に輝く建造物によって構成された壮麗な「白の都(White City)」。

 また、現実を変容させる道具としての「緑色をしたゴーグル(Green Goggles)」。

 ボームがこれらを目撃したことは、世界で長く読み継がれている《オズの魔法使い》の根本に今も息づいている。

 

 ちなみに私は《オズの魔法使い》だとゲイエレット姫が好きな登場人物です。

 

 

一色に輝く壮麗な都

 

 1891年に家族を連れてアバディーンから引っ越し、建築家のフランク・ロイド・ライトが勤務していたのと同時期のシカゴへ移った彼はその2年後、1893年に開催されたシカゴ万国博覧会(World's Columbian Exposition)を目の当たりにする。

 展示の中でも、人工池の傍らにずらりと白亜のパビリオンが並ぶエリアは白の都「ホワイト・シティ(White City)」と呼ばれ、《オズの魔法使い》における「すばらしいエメラルドの都」——原文では「エメラルド・シティ(Emerald City)」と称された都市の、着想元の一部となっていたようだった。

 白一色に光り輝く都……。

 ちなみに当初「オズ」の挿絵を担当したウィリアム・ウォレス・デンスロウが描いたエメラルドの都の様子、巨大なドームなども、実際にシカゴ万博で展開されていた光景と共通点を持っている。デンスロウが描いた万博会場の姿と、実際の白黒写真、そして挿絵の3つを検索して比べてみると面白い。

 

 

 日本語版、新潮文庫の訳者あとがきにはこうある。

 

また「白の都(ザ・ホワイトシティ)」というものも出現した。

当時の写真を見ると、パリのコンコルド広場に似ている印象だが、そうした壮麗な建物のすべてが白亜で、都の門にはシロクマの彫刻が飾られていた。陽の光が当たるとまぶしくて、見学者はほとんどサングラスをかけたという。

 

(新潮文庫「オズの魔法使い」(2019) L・F・ボーム 河野万里子訳 にしざかひろみ絵 p.249『訳者あとがき』より)

 

 特別なメガネなしでは、まばゆいエメラルドの都の輝きで目をやられてしまう――。

 そんな風に門番から説明を受けて、しっかりと鍵付きのメガネを装着し「エメラルド・シティ」を歩き回ったドロシー達の姿が脳裏に浮かぶ。すべてが宝石のエメラルドや緑の大理石に覆われて光っている広大な街で、売られているのは緑のキャンディ、緑のポップコーン、緑の靴、緑の帽子。

 ……もちろん、レンズの色がそう見せているだけなのだが。

 

 

緑のゴーグル越しに見る世界

 

 この「メガネで異なる事実を現実だと信じさせる」要素に関しては、作者ボームが過去に執筆した一連のコラム(《Our Landlady》と名付けられた)のうち、ある回に登場した「農民によって緑のゴーグルをかけさせられた馬」の存在も無視することができない。

 そのようなゴーグルが本当にあったとは。

 1890年5月3日、サウスダコタの新聞The Aberdeen Pioneerに掲載されたコラム"She Discourses on Many Topics and tells how Alley deals out the Corn"に、こんな一節が見られる。

 

"Got any feed?" says Alley.

"No," says Jake, "I put green goggles on my horses an' feed' em shavin's an' they think it's glass, but they ain't gittin' fat on it."

 

( L. Frank Baum《Our Landlady》(1999) University of Nebraska Press p.61)

 

 干ばつに際して馬にやる飼料がないので、代わりに緑のゴーグルを彼らにかけさせ、食べている何かを草だと思わせる……というエピソード(!)。文中のshavin'sというのはおそらくshavingで、木やその他の素材で薄い欠片になったものを指す言葉。木片を食べさせていたとでも捉えておく。

 こんな風に、真実ではないことを真実だとする作為で成り立つユートピアとして「大魔法使いオズ」が構築したエメラルド・シティもあった。

 フランク・ボームは他にも「カカシ」「マッチ」「陶器」など、自身の思い出や仕事に関連する言葉をさりげなく「オズの魔法使い」に登場させている。形を変えて物語の一部となったものたちは、だからこそ精彩を放って見えるのかもしれない。

 都というものの美しさや華やかさに驚嘆しながらも、そこに長く留まるのではなく故郷に帰りたい、と願ったドロシーの気持ちは、当時の作者自身が抱いていた感情とどこかで繋がっていただろうか。

 

シカゴ万博のホワイト・シティ

 

 一色に輝く都のイメージを膨らませるきっかけとなった、実際のシカゴ万博における《ホワイト・シティ》の様子をもう少し知りたいと思った。まず覗いてみた国立国会図書館のwebサイトには、史上最大の「電気」を活用した万博として概要が紹介されている。

 会場内で「栄誉の中庭」区域にあった真っ白な街のことも。

 

 

 表面に化粧石膏を施されたことによって、すっかり真っ白になった建物群。

 しかも色そのものだけではなく、歴代の万博のなかで初めて大量の電力——第4回パリ万博(1889)に比べて16倍もの光源——が用いられ、約12万本の電灯(一部はアーク灯)が会場を照らしたというから、その文字通りの眩しさは当時の人間にとってかなり衝撃的であったことだろう。

 きらきらした強い電飾の光は、白亜の壁に反射して、それこそ宝石の輝きのように目を灼く。

 また、吉見俊哉「博覧会の政治学―まなざしの近代(中公新書)」では、第5章2節『白亜の都市とミッドウェイ』にこのような記載があった。

 

ホワイト・シティの建築群を支配していたのは、パリのアカデミーの影響を受けた古典主義的様式であった。なかでもその基調をなしたのは、古代ローマのイメージである。人工池の周りにイメージの源泉を求めることは、一九世紀初頭、ジェファソンによるワシントンの建築でも見られたことである。

 

(中公新書「博覧会の政治学―まなざしの近代」(1992) 吉見俊哉 p.188)

 

 作品の本筋から外れるが、このホワイト・シティと対比されるように設置されたエリアにミッドウェイ・プレザンスなる通りがあったのも見逃せない事実。

 そこは世界の諸民族やその文化を出し物的に利用した娯楽街で、当時の思想としてはこの「未開」かつ後進的なエリアから、観客を徐々に進歩と「文明」の象徴、西洋的ユートピアを象徴するホワイト・シティへ導くような構想があったと推測されている。

 これらの展示が人種的な偏見、差別意識と結びついていたことや、催事を通してそれが大衆娯楽とも密接に絡んでいた過去を意識の隅に置き、シカゴ以外の近代の万博(とりわけ物語とゆかりのあるもの)各回にも目を向けていきたい。