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彷徨する自由帖

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近代の軍事施設、レンガの歴史遺産が残る「猿島」へ - 横須賀市の無人島・国史跡の旧要塞

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 生まれてこの方、英国に留学していた数年を除いてはずっと住み続けている地元、神奈川県。

 代表的な横浜をはじめとした地域に、私の大好きな近代遺産が多く集まっている興味深い県なのだが、ではそのすべてに足を運んだことがあるか……と問われれば、答えは否だ。

 まず、その気になればすぐ行ける場所にあると認識していると、意外と訪れる機会を作ろうと思わない。加えて、そもそもその存在すら知らない場所がいまだに沢山ある。

 

 先日ひとりで足を運んだ横須賀の無人島、猿島が当てはまるのは前者だ。

 主に幕末から明治にかけて軍事的な施設が建設され、東京湾の防衛拠点として利用されてきた猿島。民間人の立ち入りは禁じられ、戦後の一時期は米国に接収されていたこともある場所だが、1995年以降は船を利用して簡単に上陸できるようになっている。

 タブの木に周囲を囲まれた島の内部へ進んでいくと、先に満ちていたのは不思議な静寂だった。

 

参考サイト:

無人島・猿島 <公式>| 【TRYANGLE WEB】

猿島公園|横須賀市観光情報サイト

 

猿島

 

 下船した桟橋を歩き、砂浜を経由してさらに先へ。

 整備された散策路を辿れば徐々に頭上から注ぐ光量が絞られ、文字通りに鬱蒼とした草木にすっかり周囲は覆われて、網膜に映る空気がうすい緑の色に変わる。

 決して密室などではないのに、ここは確かに閉ざされている。

 だから反対に、島の外側からいくら目を凝らしたところで、ほとんどのものは見えない。たとえ現役を引退し、もはや使われていない軍事施設であっても、人間の視線を拒むのくらいは朝飯前ということなのだろう。

 

 

 いよいよ幹道の端に立って先を見通せば、心地良さとも、怖さともまた異なる感覚を否応なしに抱くことになる。木材の散策路は、普通の靴だと足音がよく響く。

 少し驚いたのは、高さの異なる通路が茂みを隔てて隣り合っているからか、それとも両脇を石壁に挟まれているからなのか、あるいは弾薬庫などの空洞のせいか……わりと離れた場所を歩いている人達の声が、妙な場所から聴こえてきてくる場面が何度かあったこと。

 ひとりでいると特に肝が冷える。けれど、嫌いな感覚ではない。

 そんな切通しに並ぶ、兵舎を含む色々な旧要塞施設の遺構は、2015年に国の史跡として指定を受けた。

 時代ごとに増設や改築を繰り返していた猿島の要塞では、オランダ積みやイギリス積み、それから小口積みなど、多様な煉瓦が確認できる。焼成時間が異なる煉瓦の組み合わせが目を引く箇所もちらほらと。

 そのなかでも特筆すべきなのはこのトンネルで、フランス(フランドル)積みを採用した同時代の建築物は、日本国内でも数か所にしか現存しない貴重なものなのだそう。

 

 

 全長88.66メートル、高さ3.67メートルのトンネル(隧道)は、入口の周辺からして魔窟じみている。

 実際、前に立ってみるとそこまで威圧的な雰囲気は醸しだされていないのだが、足元がゆるやかな坂になっていて、トンネルに向かうと自分が徐々に下降しているように思われる。だから、少しどきどきするのだろう。地下世界。ギリシア神話において、ハデスが治めた冥府も地面の下にあるのだとよく言われる。

 明治15年に大規模な土砂崩れの被害を受けたほか、完成に至るまで度重なる作業の中断を経験するなど、このトンネルの工事は難航したそうだ。

 説明の立看板を見直すと、日本に現存するフランス(フランドル)積みの煉瓦建造物はこの猿島のトンネルのほか、米海軍横須賀基地内倉庫、富岡製糸場、そして長崎造船所小菅ドックと合わせて4カ所とのこと。本当に少ない。

 そもそも、明治20年以前の煉瓦建造物で残存しているものは22件ほどだという。

 

 

 

 

 煉瓦の積み方の主流がフランス(フランドル)積みからオランダ積みへと移ったのが明治10年末ごろと推測され、さらに現在もよく見られるイギリス積みのものが増えたのは、明治20年あたりを境にしているらしい。

 私は積まれた煉瓦を眺めていると、電信のモールス信号を連想する。外側に面しているのが長手と呼ばれる箇所なら「ツー」で、小口であれば「トン」といった具合に。

 フランス(フランドル)積みならどの列もトンとツーを繰り返し、イギリス積みであればトンの列とツーの列を交互に繰り返しているような。

 煉瓦の各部位には長手と小口以外にも平などがあり、大きさの比率が変われば羊羹だとか七五だとかいう異なる名称がつけられるので、すべてをその印象のなかに押し込めてしまうわけにはいかないのだけれど。たまに上のようなことを考える。別段、毒にも薬にもならない。

 歩きながら、苔むした階段や用途の分からない何かの痕跡を探すのは、それだけでわくわくした。

 肺に緑のつめたい空気を満たしてほうぼうに視線を走らせる。どこかにまだ兵隊が潜んでいるかもしれない。陸軍か、はたまた海軍か。猿島は両者によって利用されていた施設だが、彼らの折り合いは悪かったと噂に聞く。

 

 

 もうひとつの小規模なトンネルはカタコンベみたいだ。

 今はこうしてほぼ全体が見学のできる公園になっているけれど、誰も足を踏み入れなかった頃の島内部を思うと胸が高鳴る。陽が昇り、また沈むのを幾度となく数えてきたこの場所は、現代に至っても訪問者のことをあまり意に介してはいないようす。かといって黙々と職務に従事している印象も薄い。

 あえて表現するならば、眠っている、に近いのだろうか……。

 猿島を騒がしくして、今まで固く目を閉じていた煉瓦たちを起こしたら、もしかしたら地響きを立てながら動き出す可能性もないわけじゃない。どこぞの航海士が島に上陸したら巨大な亀で、焚き火をたいたら覚醒したなんて伝承も世界にはある。一部の地域では、ザラタンもしくはサラタンと呼ぶらしい。閑話休題。

 島の片側に集中しているのは砲台跡。その本体はすでに無く、時計の盤面のような丸い遺構だけが、そこには過去に何かが設置されていたことを示唆している。

 

 

 その付近から細い階段を下った先にあるのは広場で、解説を読むに江戸時代、幕末の台場の名残りなのだそうだ。名前を卯の崎台場と言った。

 時の幕府が外国船の侵入を防ぐために作ったもので、当時は三門の砲台も置かれていたらしい。島のなかでも高い位置にあり、今では単なる眺めの良い場所だ。海側を見渡せば浦賀水道や第一海堡(かいほう)の方角を向くことになる。

 静かで心地がよく、少し寂寥とした雰囲気がただようのは、柵の向こう側に覗くむき出しの岩場と波の音の影響にちがいない。

 猿島には、令和元年に通過した大型の台風の影響がまだ残っているため、そこから横須賀市街側に面したもう一つの広場までは行くことができなかった。散策路のところどころが通行禁止になっている。

 ふたたび肌寒い切通しの日陰を歩き、往路でも通った砂浜へ続く坂を下って、今度は実に味わい深い佇まいの発電所まで会いに行く。木々の隙間から灰色の小屋と、伸びる煙突が姿を現したのならそこが目的の場所だ。

 

 

 

 

 この猿島発電所は明治26〜28年に建てられたもので、当時は島の最高地点にあった探照灯へ電気を供給するための蒸気機関発電所として利用されていたほか、現在も電気の来ていない猿島のために日々稼働している。

 とにかく全体の形が素敵だからなめるように眺めてしまう。一般人が内部に入ることはできないが、ウェルカムセンターに詳細な説明書きがあった。

 小屋組みは洋風、木造のキングポストトラスで、掲示されていた屋根内側の写真を見るとその構造が分かる。壁は煉瓦積みで柱は使われていない。蒸気機関室、発電機室、地下には貯水槽を備えており、片流れ屋根の部屋部分が石炭室という位置づけになっているとのこと。

 煙突のところどころから顔を覗かせる煉瓦が良い。そして、先端に向かってホチキスの針のように頭を出している梯子が、さらに良い。こんなにも素晴らしい明治期の建築物なのに、比較的ほかの見学客にはスルーされているようなのが全く解せず、ひとり困惑していた。

 次の船が来るまではこれのそばで待機していたく、もう一度猿島を一周した後は戻ってきて日陰の椅子に座り、発電所の横でずっと本を読んでいた。

 

 

 

 

 

Odai「わたしの癒やし」