帰り道でふと、月の女神の声が聞こえた気がした。
涼やかで細く、かつ嫣然とした、抗いがたい魅力を持つ笑い声。視線を空に向けたら進む方角の左側、斜め上の空に恐ろしく大きな月が輝いていて、その日が満月であったのだと悟った。
商業施設の角ばった縦長の建物や家々の屋根、電柱、看板などの重なりに一部分を遮られていても、路地の隙間から顔を覗かせる、あの光る円い岩石はまったく存在感を失わない。耳を塞いでもその声が聞こえる。
現代の都市部では街の灯りのせいで星の輝きが薄れてしまって……、なんて時折言われることが、これを見ると、到底信じられなくなってしまう。
むしろ反対のような気がしてならない。
地上がこれほどの灯りで満たされていなければ、人間は夜が訪れるたびに——もしくは昼間であっても面影を求めて——すっかり心を囚われ、四六時中天を仰ぐ他には何もできず、例の凄艶な衛星のことばかり考えてしまうに違いないのだから。
地球上に存在するすべての人間の魂が月に吸い寄せられた暁に、無人となった惑星はそれ自体が、徐々に風化する過去の記憶を繰り返し再生する「装置」として機能し始める。そして、自分という意識は結局その残滓を観測し、今ではなくかつてどこかに存在していた街や、生命の痕跡を追いかけているにすぎないと感じられる瞬間がよくあった。
冬に歩道を歩いていると。
いつかの時点ですでに起こっていた現象が繰り返し投影、上演され、私は観客として演目を鑑賞している。遠い昔に無人となった都市をこうやって歩いて、一時的に古の世界を垣間見ているのが、要するにふだん覚醒しているときの状態であるのだと。
訪れた滅びの後に一人でポッツリ生き残ってしまい、それを月の女神に笑われているような、どこか侘しさと奇妙な満足感に似たものを心に感じた。
あるいはこれも、単なる錯覚なのだろうか。
枝からことごとく葉を落とした冬の街路樹は、樹皮につやがなくて光を反射しない種類が多いせいか、月や街灯を背景に回すと逆光で空に沈み込んで見える。
埋没、いや、透明になっているとでも表現すればよいだろうか。後ろに光があるほど鮮明には見えなくなって、ときどき存在すら失念するものの、きちんと歩道の脇にいる。驚くほど人間の近くに。
彼らの孤独について教えてくれたのは、本だった。
ドイツに生まれ、営林署での勤務経験があるペーター・ヴォールレーベンの著した『樹木たちの知られざる生活:森林管理官が聴いた森の声』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫)では、森林の樹木たちがどれだけ社会形成を重んじるのかと、それに比べて、市街地に植樹で連れてこられた木がいかに孤独に存在しているのかが述べられている。
根を使って会話できる距離には、成長に必要な事柄を教えてくれる者がおらず、若木の頃に通う学校もなく、また友人もいない。
類似した種の木が近くに複数植えられていれば、人間に感知できない化学物質を葉から発してコミュニケーションを取る余地も残されているようだ。けれど想像すると通常の会話よりむしろ、駅ですれ違った人間へ無差別に声を掛けるのに似た、ごく些細なものかと思えてしまう。
有名な「52ヘルツの鯨」が孤独な生物の代名詞になって久しいが、そのうち、街路樹も突き詰めると同じような存在だとひろく認識される未来が訪れるかもしれない。多くの同族が行き交う場所にいたとしても、結局のところどこかで隔絶されているのは、実は人間とも変わらない。
夜空の下では等しく、こうして冴え冴えとした月の女神に俯瞰されているところも。
私達の疎外感を女神はきっと笑っている。
ギリシア神話みたいに、エンデュミオーンの羊たちの世話をし、数も巧みに管理しながら。月から降ろした羊に地球の丘を歩ませて、好きなだけ草を食ませ、必要ならまた軽々と小屋に戻す美しい手管。その不思議な力が描く軌跡を眺めていると、舌を巻く。
群れから少し離れたところにいる羊がいちばん美味しそうに見えるのに、彼女はおいそれと一匹を狩らせてはくれない。いつもと違う狼の気分になり、柔かそうでいて実は強靭な羊毛が覆う背に忍び寄って、爪を立てようとすると、牧羊犬を象った精霊に似た月光の集積に思い切り手を弾かれた。
いまいましいことだと歯噛みする。
以前は羊に感覚を同調して歩いてもみたが、今日みたいに襲撃者の方へ魂を近づけると、世界はまるで様変わりして見える。
飢えた獣に扮して家まで帰る過程で、いるべきではない場所に誤って迷い込んだ、結果的な侵入者としての意識を自分のものとした。街路樹の落とす影は鉄格子みたいだ。
これは、退勤した私が会社から自宅に辿り着くまでの、他愛のない与太話。