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彷徨する自由帖

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ほとんど肉体的な行為としての読書について、雑感交々

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 食事みたいに、または運動みたいに、「直接身体に影響する」という意味において本を読むのは肉体的な行為である。一般によく考えられている風に頭の中だけでは終わらないし、完結もさせてくれない。その内容が(無論、時には不完全に)消化され、各要素が血管のすみずみにも巡り、果ては骨の髄へと至るまで。

 綴られた文字に紡がれた言葉は、人に満腹や空腹を、高揚や疲労を、そして恐ろしく強力な酩酊感ももたらす。

 だからこそ読書は危険な行為でもあるのだと、過去記事でも書いた。

 

 わざわざ今その実感に言及するのは、先日、本棚の奥から久しぶりに引っ張り出してきた小説のおかげで、なんと著しく体調が悪化し、生活に支障が出たのが理由だった。吐き気と眩暈と、全身の虚脱感、不自然な飢餓感。

 さいわい、こうして困った影響を与えられるのが本なら、都合のよい健康回復を期待できるのもまた本であるがゆえに、しばらく時間を置いてから再び目をかっ開いて別の作家の好きな随筆を読んだ。貪るように。

 すると無事、動けるようになった。

 単なる文字の集積を網膜から摂取しただけで、こんなにも身体の方に直接的な変化がもたらされるなんて、到底信じられない時がある。信じられなくても、実際に起こるのだから仕方がない。

 その困った効果を容赦なく私に発揮してきた本というのが、山田詠美の短編集「風味絶佳」。もう10年以上前に出版されたもので、特定分野の職業と恋愛にまつわる、6つの物語が収録されている。

 

 

 私はこの本を手に取り、内容に没頭し始めたら最後、必ずと言っていいほど具合が悪くなる。もう大丈夫になっただろうか、とこれまで何度決意して表紙を開いたかわからない、けれどそのたびに、あぁやっぱり今回も駄目だったと思わされる。

 くれぐれも誤解をしないでいただきたいのだが、私はこの短編集も、著者の他の作品も、毛嫌いしているわけでは決してない。

 むしろ定期的に摂取したいと思っている。着眼点、また文章表現の妙には舌を巻くし、筋金入りの作家気質でなければこういう話を紡ぐことは到底できないだろう、とも心底感じている。純粋に物語を読む喜びが確かにある。

 ただ、決定的に、自分の嗜好に合致しないのだ。内容も表現も。

 だから触れると、この上なく苦手な食べ物を容赦なく口に入れられたみたいな、名状しがたい苦痛が否応なしに始まる。世の中に存在する万物のあいだにはそういう相性の線みたいなものがあり、本来は繋がらないはずのものを繋げようとすると、得てしてそうなるらしかった。

 難儀なことだ。それなりに好き、なのに。

 

 ちなみに今回「風味絶佳」を再読していたのは、私が個人的に「必需品的な人間関係」と「嗜好品的な人間関係」の差異について思いを巡らせていたからで、この短編集に収録されている話のうち『間食』という1編がそのタイトルからしてぴったりだった。

 

「本当に死んでしまったら困る人。
 彼女の言葉に彼は頷く。それでも、時折、そういう人の死を誰もが願う。
 本当に死んじゃったら困る人。」

 

(文春文庫「風味絶佳」(2008) 山田詠美 p.9)

 

 本当になくなったら困るもの、本当にいなくなったら困る人……というのは必需品的な存在である。そして、なくなっても(生命維持の点で)実際には困らないはずなのに、その喪失によって、生きる意義すら失いそうになってしまうものが嗜好品的なものや人間関係。

 酸素は必要だ。でもそれは、必ずしも、酸素を好きであることを意味してはいない。

 だからか、と私はしみじみ思う。本当に必要なものって、ときどきあり得ないくらい疎ましく、驚くほどに憎たらしい。必要であればあるほどに。特段好きでもない、意思で選べないものを必要とさせられている、その事実自体が。なんだか否応なしに結ばれる不本意な関係みたいだ、そんなのは。

 上で一部引用した『間食』ではこの題材がとても優れた表現で描き出されている。それゆえ読み返したし、読み返して良かったと言えるものの、やっぱり著しく体調が悪くなった。なんと、肉体に直結する読書体験であることか。

 閑話休題。

 

 個人的に、誰かが読んだ本を私も読んでみたいと感じる場合、だいたいは友人に紹介されて面白そうだと思うのがきっかけだ。身近な親しい人間が心動かされた何かに、ちょっと、触れてみたくなる。

 そしてもうひとつ、その時ただならぬ情や思慕(これにも実に色々な種類がある)を寄せている人が読んでいる本は、無性に貪りたくなる……という現象がある。今すぐ、何を差し置いてもそれを読みたい、いや、読まなければ、と強く感じる瞬間。

 この場合の読書欲も、目からではなく、また頭の中だけに収まるものでもなく、「ほとんど肉体的な」としか言いようのない強烈な衝動なのだった。それこそ冒頭で挙げた例のように、食事に似ている。杯や皿を前にして長く我慢を強いられると、ひたすらに飢え、渇く。

 

 だって、他ならぬあの人が一頁ずつばりばりと咀嚼し、思考の舌でゆっくりと存分に味わい、飲み込んで身体に入れたものなのだから。

 だから私も、食べてみたい——。

 

 そう思って、同じ本を手に取ってみる。

 そんな動機で、好きな人や気になる人にすすめられた本を、手に取っている。

 

 ……こういった感覚があるために、ときどき書物を「貪る」だとか「喰らう」だとかいう表現が自己の内側から出てくるらしい。通常とは違い、どう足掻いても「読む」にはならない時の話。

 読む。拝読する。

 考えてみれば、どことなく敬虔な感じのする言葉だ。

 だから特定の場面においては使えなくなる。

 単純に、好きな人が食べているものと同じものを私も食べたいのだ、この肉体にどうしても、どうしても取り込みたいのだ……と獣じみた獰猛な衝動を訴える表現に、そんな綺麗な響きの単語は、あんまりふさわしくないから。