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彷徨する自由帖

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夏目漱石が遺した未完の《明暗》- 虚栄心と「勝つか負けるか」のコミュニケーション、我執に乗っ取られる自己|日本の近代文学

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 国語、現代文の教科書によく掲載されている「こころ」は無論、良い。

 良いけれど、彼が最後に執筆していた未完の作品も、ぜひとも読んでもらいたいと思うわけなのです。

 

「奥さん、人間はいくら変な着物を着て人から笑われても、生きている方が可いものなんですよ」
「そうですか」

 お延は急に口元を締めた。

「奥さんのような窮った事のない方にゃ、まだその意味が解らないでしょうがね」
「そうですか。私はまた生きてて人に笑われる位なら、一層死んでしまった方が好いと思います」


(新潮文庫「明暗」(2007) 夏目漱石 p.256)

 

 ……その感覚を、知っている。と、言葉が思わず口をついて出る。

 他者から軽蔑され、見下され、侮られながら、なおも生きなければならないことを想像して感じる苦痛。もしも外から常にそのように扱われなければならない場合、一思いに死んでしまった方がよほど良いではないか、と思える瞬間。それは「ある」。ヒトとしてヒトの社会に生きていれば、どこかの地点で必ず訪れる。

 だから結果的に、人間の世界でいわゆる敗北者として存在するのが嫌なら、そうならないように尽力し続けなければならないと脅迫的に念じることになる。現在の、自分自身に対して。

 

 でも。

 それは一体誰との、また、何における勝負だというのか?

 

 夏目漱石の絶筆である「明暗」から上に引用した会話で「人から笑われたとしても生きている方がいい」と言っている方の人物は、名を小林といった。お延という女性との会話の中で、あの台詞を口にしている。

 しかし、どちらかというとそれは彼自身の本音というよりか、相手より優位に立つための「心理的な戦い」によって狡猾に選ばれ、導き出された言葉だといえよう。それが本文を読んでいるとだんだん分かってくる。

 自分が本心ではどう思っているか、よりも、目の前の相手にどんな作用を及ぼしたいか、で言葉を選び発した経験は、多くの人が持っているはず。小林がお延に対して(また、お延の側も小林に対して)仕掛けたのはそういう性質のもの。

 

 一方、お延の夫であり、自身の友人でもある津田の前で、小林はある時こんな風に零していた。

 涙を流しながら。

 

「君は僕が汚ない服装をすると、汚ないと云って軽蔑するだろう。又たまに綺麗な着物を着ると、今度は綺麗だと言って軽蔑するだろう。じゃ僕はどうすれば可いんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。
 後生だから教えて呉れ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」

 

(新潮文庫「明暗」(2007) 夏目漱石 p.99-100)

 

 これは小林の、ある種の本心とも呼べる思いの発露。お延や、津田や……あるいは他の人間の前で、普段そう思ってはいても、決して口には出さない(出せない)内情の一端だった。

 問題はこの言葉が、そして相手の前で思わず晒した本音が、その後どのように受け取られたのかという部分。

 武器になる言葉。盾になる態度。それら、日頃から己を守っている武装を不意に解いて他人と直接向かい合う時、私達はどんな形であれ、必ず、何かしらの傷を受けることになる。どう足掻いても避けられない。

 

書籍:

明暗(著:夏目漱石 / 新潮文庫)

 

 

 

虎視眈々と相手の出方を伺う会話

 

 人間の世界では、少しでも弱みや綻びを見せた瞬間に侮られたり、立場が下だと認識されたり、あるいは取るに足らない存在だとして無視されたりするもの。たとえ気が付かなくても。

 だから誇りを失わないため、身を守るために、誰もが無意識に武装しているのが実に疲れることだなと思う。

 

 漱石の「明暗」で描かれているのも、人間同士の意思疎通におけるそういった側面。

 例えば知人に、最近そちらの調子はどうか、と尋ねられた時に「自分の本心や現状」ではなく、「目の前の相手に見下されない答え」を頭の中で練って返すようなこと。元気がなくても、元気だと答える。生活が全然うまくいっていなくても、うまくいっている、と答える。

 そうしなければ、下手に弱みを晒す羽目になるかもしれないから。

 

「ええ。其処だけはまあ仕合わせよ」

 他に向って自分の仕合わせと幸福を主張しなければ、わが弱味を外へ現わすようになって、不都合だとばかり考え付けてきたお延は、平生から持ち合せの挨拶をついこの場合にも使ってしまった。そうして又行き詰った。

 

(新潮文庫「明暗」(2007) 夏目漱石 p.383)

 

 平生から持ち合わせの挨拶、とはよく表現したものだと思う。要するに、反射的に出てくる「定形文」のようなもの。無難に、かつ見下されずに場をやり過ごすための。

 この場面で、お延は自分の夫である津田の妹・お秀と会話をしている。ふたりとも、相手の一言や仕草のひとつひとつから何かしらの意味を読み取ろうとし、さながら盤上で交互に駒を動かしているかのような、腹の探り合いを展開しているのだ。

 まず、相手が気に入りそうな言葉を選ぶ。すると裏に潜んでいる誇張や虚偽に気付かれて、不信感を抱かれる。そこであえて二歩も三歩も引いてみると、向こうもわずかな疑いを顔に出してしまったことに思い至り、お世辞の返礼をしたり別の話題を持ち出したりする。

 この瞬間に話題は、単純にふたりの間で交わされる会話の題材、という意味を越えて、賢く利用すれば何らかの有益な効果をもたらす「材料」へと変貌するのだった。そこで、ただその場に存在し、相手と会話することを楽しみ、結果的にどう思われても全く平気でいられるほど人間は無神経になれない。

 ましてや作中の設定である大正の世。周囲の人間との関係を、そのまま社会と言い換えることもできたような時代なら、なおさらだった。個人が個人の意思で選べたものは今よりもずっと少ない。結婚相手も、それに半ば自動的に付随してくる、相手の家族も。

 

お延がどうしようかと迷っているうちに、お秀はまるで木に竹を接いだように、突然話題を変化した。行掛かり上全然今までと関係のないその話題は、三度目に又お延を驚ろかせるに十分な位突飛であった。
けれどもお延には自信があった。彼女はすぐそれを受けて立った。

 

(新潮文庫「明暗」(2007) 夏目漱石 p.377-378)

 

 見下されたり、弱みを晒したりすると、人は周囲に構築する関係のなかで不利な立場に置かれる。そうならないように策略を巡らし、常に予防線を張って自分以外の他者と、外界と対峙する。勝負するように、挑戦としての会話を受けて立つ。

 小説として描かれているから殊更仰々しく思われる表現だが、実際、人間の世界のあちこちでは毎日、毎時間、毎分、毎秒ごとにこれが行われている。

 気を抜くと必ずどこかで穴に落とされ、知らずのうちに利用されたり、無意識下でも馬鹿にされたりする可能性がある……それほど難儀なのが、社会で生きるということだった。

 

 時には「家庭」もそのようになる。

 自己と他者の在る場所が社会なら、家も夫婦関係も親子関係も、例外なくそうなのだ。

 

ただ落ち着かないのは互の腹であった。お延はこの単純な説明を透して、その奥を覗き込もうとした。津田は飽くまでもそれを見せまいと覚悟した。極めて平和な暗闘が度胸比べと技巧比べで演出されなければならなかった。
(中略)
ただ二人の位地関係から見ると、お延は戦かわない先にもう優者であった。正味の曲線を標準にしても、競り合わない前に、彼女は既に勝っていた。津田にはそういう自覚があった。

 

(新潮文庫「明暗」(2007) 夏目漱石 p.450)

 

 

 

私も周囲も思い通りにしたいという「我」の存在

 

「明暗」を読んで、改めて自我というものについて考えていた。

 私が思うに、とある場所でふたりの人間が対面している時、実は、そこには「4人(もしくはそれ以上になるかもしれない)」が存在しているのではないかと仮定する。

すなわち、

1. Aという人間
2. Aを形づくるAの自我
3. Bという人間
4. Bを形づくるBの自我

の、ような。

 Aが素直な感情の表出を試みる瞬間、Aの自我はBの顔色を素早く伺う。もしも不都合なことがあれば、Aの自我はさっと前面に出てきて、自分自身であるはずのAが本音を口にするのを邪魔する。

 この人に好かれていたい、この人に軽蔑されたくない……という自意識により、自分が口から発する言葉が、いとも簡単に偽られ捻じ曲げられる瞬間が作中でも描かれている。

 

 自分自身を斜め上から眺め、批評し、愛し、断罪し、定義し、時には意に沿うように行動に干渉する自我の存在は、性質としてもはや自分ではなく他者のようなもの。それが、実際の他者と対峙する自己に影響を及ぼすから、状況としては板ばさみだ。順番として、まず自我が言葉を扱う。自分はそれが命じるように、口から発する。

「私」と「私を見ている私」との関係。

「その人」と「その人の中にいる私」との関係。

 他人が抱く、自分に対する印象……これを完全に操ることはできないと誰もがどこかで理解しているのに、時に打算による演出(パフォーマンス)がかなりの成功を収めてしまい、ともすれば変な穴に陥ってゆく苦しさがある。

「私は自分の理想を実現するものでありたいし、他人からもそうして理想的に生きているのだと、できるだけ思われていたい」願望であり執着。自己への、また、その人生への。

 本当の意味で思い通りになるものなど世界には存在しないのに。いや、むしろ、どれほど理想を手に入れようと尽力し奔走したところで、結局全てはなるようにしかならない圧倒的な事実、そこに「則天去私」の四文字が浮かび上がってくるのはあまりに皮肉だと思う。受け入れるにはつらすぎる。

 

 津田、お延、お秀。

 登場人物それぞれの虚栄心と、我執と……。

 

津田ははっきり疑っていないと云わなければ、何だか夫として自分の品格に関わるような気がした。と云って、女から甘く見られるのも、彼に取って少なからざる苦痛であった。
二つの我が我を張り合って、彼の心のうちで闘う間、余所目に見える彼は、比較的冷静であった。

 

(新潮文庫「明暗」(2007) 夏目漱石 p.124)

不幸にして彼女には持って生れた一種の気位があった。見方次第では痩我慢とも虚栄心とも解釈の出来るこの気位が、叔母に対する彼女を、この一点で強く牽制した。
(中略)
一旦世間に向ったが最後、何処までも夫の肩を持たなければ、体よく夫婦として結び付けられた二人の弱味を表へ晒すような気がして、恥ずかしくていられないというのがお延の意地であった。

 

(新潮文庫「明暗」(2007) 夏目漱石 p.133)

お秀は)意地の方から行くと、余りに我が強すぎた。
平たく云えば、その我がつまり自分の本体であるのに、その本体に副ぐわないような理屈を、わざわざ自分の尊敬する書物の中から引張り出して来て、其処に書いてある言葉の力で、それを守護するのと同じ事に帰着した。

 

(新潮文庫「明暗」(2007) 夏目漱石 p.379)

 

 本文中で直接的に語られるわけではないが、小林の言動も彼らとはまた違った我執に基づいている。自分はこうありたい、そして相手にもそう思われたい、という念が行動を決定し、それが空回って望んだ結果を結ばない。

 また、あの冒頭の本心の発露に戻る。

 

「じゃ僕はどうすれば可いんだ。どうすれば君から尊敬されるんだ。
 後生だから教えて呉れ。僕はこれでも君から尊敬されたいんだ」

 

 さて、涙を流しながら、うっかり本当の思いの一部を吐露してしまった小林は、どうなったのか?

 目の前にいる津田という人間に、どのように思われたのか。

 

不幸にして津田の心臓には、相手に釣り込まれる程の酔いが廻っていなかった。同化の埒外からこの興奮状態を眺める彼の目は遂に批判的であった。
(中略)
彼は詰らなかった。又不安であった。感激家によって彼の前に振り落とされた涙の痕を、ただ迷惑そうに眺めた。

 

(新潮文庫「明暗」(2007) 夏目漱石 p.99)

 

 もちろん、そこから友人同士で腹を割った、本音での心温まる会話など始まるわけもなく。

 弱味を晒してしまった小林はこの場面における「勝負」に負け、津田に「取るに足らない何か」として受け止められ、いたく冷たい目でその様子を眺められてしまったのだった。

 

 

 パブリックドメイン作品なので、以下のリンクから全文が読めます。

明暗 - 夏目漱石|青空文庫

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