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彷徨する自由帖

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P・A・マキリップ《茨文字の魔法》時間にも世界にも隔てられず蔓延る、その棘の蔓は……

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 崖に建つ壮麗な王宮と、岩盤を削ってその地下に築かれた図書館。

 レイン十二邦の王立図書館に勤める書記レイドリーは、同僚の少女ネペンテスが、謎の古い書物を構成する〈茨文字〉の翻訳に異常なほど熱中している様子を眺めながら、愚痴のように零した。

 それを受けて「空の学院」の生徒、ボーンが答える。

 

「すっかり夢中になってるだろう。亡霊に心を奪われてる。誰だってあくびが出てくるような歴史の断片にだぞ。あれを読んでいるとき、ほかのものが話しかけて、こっちには見えもしなければ聞こえもしないものを伝えてるんだ」

(中略)

「それが魔法の始まりなんだ。想像力を自由に働かせて、あとを追ってみる」

 

(マキリップ〈茨文字の魔法〉(2009) 原島文世訳 p.178 創元推理文庫)

 

 書物に、物語に、一度でも夢中になった経験があるなら思わず微笑んでしまう言葉ではないだろうか。

 ページを開いて眼で文字をひとつひとつ飲みこみ、噛み砕き、頭の中である一幅の画を織り上げているあいだ……実際の身体の周囲にある音も、色も、暑さも寒さすらも消え失せる瞬間が確かに訪れる。

 それを称して「本には魔力が宿る」と比喩されるのだが、図書館のそばで拾われた孤児で、今は書記として働くネペンテスが捕らえられた魔力というのは、実は単なる例えとは種類を異にする、ある特定の魔法らしかった。茨のような形をした、文字。

 

 綴られているのは、かつて世界を征服したとされる伝説上の人物「アクシスとケイン」の物語。

 

(レイドリーがネペンテスに)信じがたいという口調で言う。「そんなに夢中になっているっていうのかい? 何千年も前に塵に還った相手なのに」

「好きになる対象は選べないもの」

 

(マキリップ〈茨文字の魔法〉(2009) 原島文世訳 p.82-83 創元推理文庫)

 

 かつて存在したと囁かれている覇王、アクシス。そしてその右腕であり、決して顔を晒さなかったことから「仮面の君」と呼ばれた謎の魔術師、ケイン。

 多くの神話や叙事詩や伝説がそうであるように、彼らの物語も世界各地、異なる人間によって綴られたり想像を付け加えられたりして、時には都合よく展開や結末を変えられ伝わるなど、木々の枝が分かれていくように多岐に渡っていた。

 伝承というのはすべからくそうなるもの。では彼らが、本当に存在したものなのか。存在したとすれば実際はどのような出来事を引き起こし、そこに居合わせていたのか、その真実は誰にも知ることができない。すでにほとんどが忘却の彼方、過去に葬られたあとでは。

 けれどネペンテスは違った。

 茨の文字の不思議な力に魅了され、アクシスとケインの物語を追っていく。すると現在「史実」とされている文献とは大きく食い違う箇所に遭遇する。でも、なぜか茨文字の本が偽史である、と思うことはできなかった。一体どうしてだろう……。

 読み進めていくうちに物語の中の彼らは戦の規模をどんどん広げ、容易に抑えきれぬ不穏な軍隊が膨れ上がっていくのと同時期に、ネペンテス自身が暮らしている世界の方も複数の問題に揺れつつあった。

 父王が逝去したことで、14歳にして玉座に座ることになった女王、若きテッサラ。

 側近の魔術師ヴィヴェイがときどきうんざりするほどに、その振る舞いも、人に対して控えめな性格も、統治者としてはどこか頼りなく見えた。だが、テッサラにはまだ明かされていない才能がある様子。城の地下深く、海に近い場所まで下り、レインの初代の王からの宣託を受け取った彼女が最後に為したことと選択とはなんだったのか。

 

テッサラは動きを止めると、同じようにひっそりと立って耳をすまし、沈黙の言語を理解しようとした。まわりじゅうに言葉があるのだ、と徐々に悟る。朽ちた落ち葉、枝に巻き付いた蔦のねじれ、藪からのびた小枝、そのひとつひとつが空中に、目の前に形を描き出している。なにを語っているのだろう、と首をかしげ、すっかり夢中になって、森の言語を吸いこもうとした。

 

(マキリップ〈茨文字の魔法〉(2009) 原島文世訳 p.74 創元推理文庫)

 

 絶版が多いマキリップ作品の翻訳の中でも、過去に復刊されている数少ない一作。

 特に終盤は激情・苦痛・渇望など感情の描き方が本当に美しく、その点で《妖女サイベルの呼び声》にも並ぶ良作だと思う。面白かったし好みだった。

 

 一番良かった部分に詳しく言及しようと思うとネタバレになってしまうのが惜しくて仕方ない。

 ただ、古代の世界でそのようにしか生きられなかったある人物が、これまでに考えられなかった選択をする部分……「陽の当たらぬ場所を歩き、全てを自分以外に捧げてきた者が、初めて己のために願った事柄」が何なのか。

 その選択が浮かんだこと自体、感慨深かった。とだけ。

 

「〝見捨て。ないで。わたしを〟」
(中略)
 ネペンテスは口をひらいた。死に絶えた森のなか、音にならないほどかすかな声だった。
「本当の名前は、なんていうの?」

 

(マキリップ〈茨文字の魔法〉(2009) 原島文世訳 p.339 創元推理文庫)

 

 

※ここから先に内容や結末への言及があります

 

 

 ケインの選択、その描写が感慨深かったのは「これまで何より愛し続けてきた者と共にあること」と「己の顔と名前を隠さずに堂々と暮らすこと」の対比で……作中で後者が選ばれたことの意味が重要だと思うから。何かを基準にした、良いか、悪いか、ということとは一切関係のない場所で。

 彼女が確かにアクシスを愛したことと、長い滅私と献身の末にそれに(あるいは戦のための戦にも)疲れたこと、これは地続きになっていて、ネペンテスの世界に留まることをケインが選んだことを決めたからといっても、決して前者の比重が軽くなったわけではない。ないのだが……。

 テッサラが即位したレイン十二邦の時代、それを目の当たりにした彼女が、仮面を外して本来の自分として生きたい、と「思い」「考え」「望んだ」のが私にとっては尊い事実である。かつてケインにとっての望みとは、アクシスの形だけをしていた。

 

「おまえはなにを望む?」

「あなたの望むものを」

 

(マキリップ〈茨文字の魔法〉(2009) 原島文世訳 p.66 創元推理文庫)

 

 それに変化が訪れた。私はこういう変化が、好き。

 他に良かったのは強力な魔法の力を持つテッサラの、自然の声に素直に耳を傾けられる朴訥なキャラクター造形や、ネペンテスとボーンやヴィヴェイとガーウィン周りの恋愛関係のほのめかし方か。

 無為に前面に押し出すのではなくて、共に時間を過ごし身体的に接触している様子とか、相互に主体的に相手を好きでいるのであろう様子とか。作者や読者の一方的な都合ではなく、物語の中に、自然にそこに発生したものとして書かれている。それに好感が持てたかな。

 普段ならはい、恋愛ですよ、ってわざわざ提示されるとうんざりするものを、こうやって織り上げられるのはマキリップの感覚と手腕だなと。