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彷徨する自由帖

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かつて脳裏に描いた姿でなくても

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 私はもともと外国語嫌いだった。それも、かなり筋金入りの。

 どうせ使わないんだから、それを勉強したって仕方ないじゃないか、と豪語していたような幼少期であった。

 

 だから紆余曲折あってイギリスで勉強してみたくなり、結果的に英語を学ぶようになったことや、普通に入試を受けて現地の大学に進学してしまったことを中学時代の恩師に話したら、たいそう驚いていたのを思い出す。

 これは専門コースに所属していた3年間、高校で培った経験がもたらした変化だといえるかもしれない。短い期間でも人間は別人のように変わる。加えて大抵の場合、その変化のきっかけは、予測もできないところから突然やってくる。

 今ある自分も、昨日は全く興味のなかった何かに、明日の朝起きたら夢中になっているかもしれない。分からないものだ。

 

 生まれた町から出ずに、「ふつう」に人生を送って「ふつう」に死ぬ。そう思っていた。

 ふつう、とは……。

 昔の自分に聞いてもきちんと答えられないのではないだろうか。

 そういう、あまりにも具体性に乏しい、まったく中身のない展望と共に自分が幼少期の生活を送っていた理由のひとつは、やはり無知だったから。それまでは根本的に「生きる」という行為を深く考えたことすらなかったのだ。

 振り返れば、何かを積極的にしてみたいという欲求が異様に薄かったのは、それだけ自分の観測できる世界も視野も狭くて、必死にならなくても一応生活はできる点で快適だったからだろう。熟考してみれば家族親類の関係、自分の生育環境もあまり良好ではなく、不満も多かったはずなのに、私には「そこに暮らし続ける」ことの意味がよく理解できていなかった気がする。

 変わり映えのしない世界が、裏を返せば退屈を意味することも。

 知っている友達とたまに話して、あとは面白い本を沢山読んでいられれば、当時は満足だった。

 

 あとは、そう、何より臆病でもあった。大人になった自分からすると、それはもう異常に思えるほどに。

 実のところ、偉人の伝記や旅行記を読んで、どこか遠い国などへ足を運んでみたい願望はときどき抱いていた。けれど問題は抱いた先。果たしてどうすればそれを実行に移せるのか、望みを実現できるのかがさっぱり分からずにいたらしい。たとえば電車の切符の買い方もバスの乗り方も、他人を伴わずに自分だけでできるよう練習を始めたのは、高校に入学してから。

 家や部屋の外には、いつでも何か恐ろしいものが待ち構えている……。

 油断するとひどい目に遭う。だから家にいた方が安全、安心。

 といった(まあ、ある側面では正しい)感覚に良くない意味で囚われていたから、誰かに連れられて行く以外での遠出はしなかった。頻繁に旅行をしていたけれど、自分の意思の介在しない家の行事だったので、行っても行かなくても当時は同じだと思っていたのだ。

 でも私は大学在学中から頻繁に一人旅をするようになったし、その面白さの味を占めて、国内外どこでも好きな時に足を延ばしたり、興味を抱いた他人にも積極的に会ったりするようになった。とはいえ無気力なときはひたすら寝ているのだが、それはそれ。

 

 この世界では、大人、をどのように定義できるだろう。

 単純に社会的な意味、ある共同体が定める成人年齢を迎えているという意味であれば、私もそれに当てはまる。心情的にどれほど抵抗感を抱いていたとしても、社会の集団は自分を大人であるとみなし、そのように扱う。

 大人になった私は、幼少期の脳裏に描いていた「ふつう」の人生も、あるとき憧れていた神話や伝説の人物のような、理想の人生も送っていない。必要に応じて必要なことをし、取り組めるときに好きなことをしている。

 実のところ、色々と深く調べてみればみるほど、現代に名前が伝わっている人物であっても生前はわりとそのように暮らしていたのであった。とにかく生活費のために書いたものが評判を呼んで、別の活動に繋がった場合も、全くやろうと思っていなかった事柄に嫌々取り組んだら、予想に反して芽が出た場合も。

 あらゆる要素が結果論でしか語れない。

 何かが誰かの「人生」として語られるとき、それは実際に起こったことをある種の物語に仕立て上げたものに変換しているのであって、決して現実そのものではありえないのだ。

 

 面白い、と思う。

 時間は今、流れていて、ここで起こっている事柄こそがまさに自分の人生を構成しているはずなのに、俯瞰する視点から眺めてみると、まるで違うもののように感じられるのだから。昔の自分がそれを知ったらどう感じるのだろう。

 大人にはなりたくないと思うだろうか。

 特に物事を考えなくてもぼんやり庇護されている、その代わりに自由がない、子供という立場の不思議な世界から出ない方が楽な気がすると言うだろうか。

 まあ、どちらでも構わないのだ。過去の自分が決めることなのだから。現代を生きている自分と過去の自分は、実のところ別人である。連続性というのは幻想でしかない。

 

 その上で私は何となく、ささやく。

 君は目標を設定するとかなり頑張れる性格だけれど、それ以上に病的な飽き性だから、どうにか生活の基盤を確保した後は……ただ気まぐれに興味関心を追いかけるのが楽しいよ。

 と、いうよりか、結果的にそうなっていると思うよ。

 

 好きでもなかった外国語の学習に熱を上げて、現地へと赴いた留学生時代、

 イギリスでもまだ「子供」だった私は今よりずっと無力で、すっかり躁鬱になり、

 やがて一応は自分できちんとお金を稼げるようになり、

 迷いながら旅行をし、憧れていたエジプト・ギザの大ピラミッドに入ったり、

 心を奪われた作品ゆかりの地を巡ったりして、生きている。

 ただ、不自由の中の自由を謳歌して、考えながら生きている。

 

 それほど大人らしくもないけれど、あの頃から見れば、確かに大人になった私は。

 

 

 

 

 

はてなブログ 今週のお題「おとなになったら」