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彷徨する自由帖

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自分の人生を送るのに、何かの許可をもらったり、誰かを納得させたりする必要はなかった

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「もっと『ちゃんと』生きた方がいい」

「いつまでもフラフラ好きなことをしていたら駄目」

「もう20代後半だし落ち着いたら?」


 等々、自分が生きていく上で度々投げかけられるこれらの言葉や問いに、わざわざ答えることで反応する必要はなく。

 その答えによって、相手を「納得」させる必要も特にないらしかった。

 

「他人の言葉を気にしていたら社会では生きていけない」と言われる機会があるけれど、ならば言葉を発した側には何の責任もなく、あくまでも受け取る側だけの意識の問題なのか。

 そのような「社会」というのは、果たして素晴らしいものだろうか。

 どこかに改善の余地があるのではないだろうか?

 

 

 いかなる状況であっても、他人の進言には必ず耳を傾けなければならない。

 

 と、脅迫的に思っていた。多分そこから始まった。なんとなく、誰かから「それで良い」と言ってもらえなければ、ひどく不安になるような気持ちがあったのだ。

 やがて、誰かの発言をあまりにも「きちんと」「真面目に」受け止めていると、必ずしも良い方向へ導かれるのではなく、最終的に自分の首が締まるし足元も揺らぐ……そう実感できるようになってしばらく経った。

 仮に相手の言葉が、まったくの善意から発されたものであったとしても。

 

目次:

 

自分の不安、求めた安心

  • 常に「ご意見」を伺って

 

 例えば、信念を持ってとある選択肢を選んだはずなのに、なぜか「あなたの将来を思うとそれは不安な道じゃない?」「やめた方がいいよ」などと言われると、本当に不安になってくることがある。

 しっかり考え抜いた末に決めたことなら、後で人から何を言われても、別に影響など及ぼされないはずなのに。

 

 振り返ると「人の話を素直に聞くのがあなたの美徳」だと言われ続けて、かなり長かった。

 幼稚園時代から高校を卒業するまでの期間は特に顕著だったように思う。ずっと、人の話はちゃんと聞かなきゃ、ちゃんと聞いた上でしっかり考えなきゃ……、だってそれが自分の長所なのだから、と念じていた。

 その「しなきゃ」は私の中でいつの間にか先鋭化していったらしく、気がつけば何か行動を起こすたび、無意識に「自分以外のものから『許可』を求めるような精神」が育まれていたように感じる。

 どういうことだろうか。

 

 具体的には……

「自分ひとりの考えはとても危うい。視野が狭いし偏ってもいる。だから必ず、他人の意見と判断も聞かなければ」という思考がまずある。

 そして、それが「誰かに言われたことは素直にきちんと受け止めるべき。そうでなければならない」に繋がった。最終的には何をするにも、初めから「これって駄目ですか? 大丈夫だと思いますか?」と、無意識に尋ねようとしてしまう意識が生まれたわけだ。

 要するに他人から、良い、大丈夫、正しい等の判を押されなければ、安心できなくなっていた。「それが良いよね」と誰かに言ってもらえるたびに、「許可」されたと感じられてほっとした。

 私が私の判断を欠片も信用していなかった。

 

 ……けれど、何かに対してひとつの良さや正しさを保証できる人間などいない。

 また人間以外のどんな存在であっても、絶対的な正解を示してみせるなんて芸当は、不可能だ。誰にも、そもそも「正解とは何なのか」を答えることすらできない。その事実を一応は理解していても、実際の感覚にまで落とし込めていなかったのが、大きな問題だったのだと思う。

 成長してから躁鬱、気分障害にだいぶ苦しめられた原因はきっとここにもある。

 

 結果として、自分の人生を通して何かを行う際に「誰にも認めてもらえる正当な理由」を求めたり、あるいは「自分が存在するに足る根拠」を外部にきちんと説明できなかったりして、相当に悩んだ。

 要するに、この社会に自分が生きていてもいいのだと、常に他人に対して価値を証明し続けなければ許されない、と感じるようになっていた。

 好きな分野の勉強をしていた大学時代は特に。

 

「そんなことをしてどうするの?」

「最終的に何になるの?」

 

 と人から言われるたび「認められなかったということは、今のままでは駄目なのだ」と悩み「相手に認めてもらえるよう、価値を『証明』しなければ。それで、納得してもらわなきゃ」と感じて揺さぶられてしまうこと自体がつらく、しかしその事実に無自覚だった。

 要するに、他人の言葉をきちんと聞く行為こそが重要だと思うあまり、自分自身の意思や目的よりも、そちらが主体になってしまっていたのだろう。知らないうちに。

 私が何をするのか以上に、何らかの価値を証明して人から認可の言葉を聞き、ようやく世界に居場所が確保される……という感覚。

 

 普段、私達は不可避の他人との関係の中で生きている。

 社会から完全に抜け出すことはできない。

 でも、社会的な評価や他人とのかかわりだけで全てが決まるのではないことに関して、すっかり失念していたのかもしれない。

 

  • 証明できないと安心もできない?

 

 この思考の癖……というよりある種の習慣のようなものは、一体人生のいつの時点で、また、どのようなきっかけによって始まったのだろう。

 記憶の糸を辿ってぼんやり思い出せるのは、母に「これを買ってもいいですか?」と遠慮がちに尋ねる幼い自分の姿。

 当時の家では子供の買い物に「お小遣い制」ではなく「事前申告制」が採用されていたので、何か欲しいものがあれば都度、なぜその品物が自分に必要なのかを大人に説明して、値段分のお金をもらうという形式だった。

 買っても良い、と「納得」してもらえれば買えるし、要らないでしょと判断されれば買えない。

 

 大人に許可されればそれは必要なものだと思えたし、駄目、と言われた場合は、きっと自分にはふさわしくないものだったのだと納得するようにしていた。実に素直に。きちんと認められたものだけが手元にあることで、余計なものに囲まれていない状態を実感でき、不満もなく快適だった。

 私は無駄なものを買ったのではなく、きちんと認められた、正当な買い物をした。

 そのように証明されていることは、確かな安心の材料で……。

 

 そう、この習わしは明らかに後の自分に影響していたはず。

 中学卒業後、行きたかった専門コースのある高等学校へ進学し、奨学金以外で学費の大部分を親に払ってもらっていた状況を自覚してからは、それを毎日強く意識することになる。

 生活を賄う金銭のほとんどが自分の稼いだものではないので、勝手に使うわけにはいかない。許可が要る。事前にお伺いを立てて、許されて、初めて自由を得る……そういう感覚。当然だった。明確に理由を説明できないものに対して、勝手に費やせる他人のものなどないのだから。

 その上で何かが欲しいと望むなら、自分はそれに値すると、出資してくれた相手(この場合は親)に「証明」しなければならない。資格を得るために。こういう姿勢で何事にも臨んでいた。

 別に、それ自体が間違っていたとは思わない。問題はもっと根本的な性質を持っていて、異なる場所にあったから。

 

  • 本当にこれでいいのか、という不安

 

 こうして書き出してみると、私が抱えていた要素にはもうひとつ、際限のない不安があったのだと分かる。

 不安。

 不安というより他に、表現しようのないもの。

 理由はおそらく、私自身が「ここ数十年の社会で『良い』とされてきた価値観」にあまりうまく馴染めず、それに沿って生きることへの興味が薄かったため、常に周囲から非難される可能性を見据えて行動していたからかもしれない……と思った。

 

 学校卒業後、ひろく名前を知られた会社に勤務するとか。

 各業界で重宝される能力を高めて、有用な人間(この言葉も大嫌いだ)になるとか。

 または、結婚という社会的契約を結んで、自分の立場を明確にするとか。

 出産により国家の掲げる少子化対策に貢献するとか。

 他にもいろいろあるだろう。

 

 とにかく私は、そういう「社会」や「皆」が良い、正しい、と表明する価値観の枠に、自分の思想を(部分的にならまだしも)全部きれいに当てはめることはできなかった。

 すると、記事冒頭でも述べた「他の人から言われたことをきちんと受け止めるべき」という強迫観念とこの状態が反発し合い、結果「私は間違っている」という意識が生まれる。常に周囲の意見に耳を傾けようとするから、精神的な所在のなさや、罪悪感も絶える暇がない。

 社会的な正しさから離れようとすると、必ず「もっとちゃんと生きた方がいい」「いつまでもフラフラ好きなことをしているようじゃ駄目だよ」「もう20代も後半なのに、まだ落ち着かないの?」のような台詞を四方八方から投げつけられてしまう。

 

 他人の助言にしっかり耳を傾けるのは、良いこと。

 

 それなら彼らの話を聞いて行動を改められない自分は、どこかに欠陥があるのだろう、と考えた。

 私は自分がここにいる正当性を明示できないのに、図々しくも存在を続けている。

 それが、なんだかおかしいような気がしていた。

 正しく在ることで自分の価値を証明できないだけでなく、誰からも「それで良い」という「許可」を与えてもらえないのに、生きていることが疲労だった。

 

 ある日のどこかで、とうの昔に自分で稼ぐようになったお金で何かを買おうとした瞬間、ふと「これを買ってもいいですか?」と頭の中で母に聞きそうになってしまったのを憶えている。

 これはもう私のお金なので、品物を購入するのに誰の裁可もいらないはずなのに……。

 

 自分は普段の毎日を過ごす中で、その都度興味を持ったことに取り組んでいる。本を読んだり、旅行をしたり、人と話したり。それだけなのだ。

 すると、

「そんなことをしていて老後はどうするの?」

「それが何になるの? 何の意味があるの?」

 と、聞かれる。

 

 私はそれらの問いに対して、万人を納得させられるような答えを持たない。自分はこれで良いのだと証明することができない。

 この人生には絶対に価値がある、と喧伝することもできないから、周囲から「良いですよ」という許可も与えてもらえない。

 では……間違っているのだろうか?

 

他人の言葉の無責任さ

  • 意外と「雑」な言葉で溢れた世間

 

 ひとりで考えていると視野が狭まる。

 だから、人の意見はちゃんと聞くべきだ。

 ちゃんと耳を傾けた上で、しっかり考えなきゃいけない。

 それってどうなの? と問われたら、相手を納得させられる材料を見つけないといけない。

 独りよがりにならないために。

 

 でも、色々な方向から話を聞いて、考えた末に導き出した答えが世間の示す「正解」と違っていたときに、私は一度道を見失ってしまった気がする。これでも、きちんと規範に従って道を歩いていくつもりはあった。昔はまだ。

 熟考した末、とある理由から大学を辞めることになったのだが、その選択が自分にとっては最適なものだった分、周囲から「それで良かった」と保証してもらえないのはなおさら据わりが悪かった。それでも必死に考え続けながら毎日を過ごしていた。

 ふと休日に、これといったきっかけもなく、友達と楽しく話していたら、ある思いが脳裏に浮かぶ。

 

「言うだけ」って、楽だよな……と。

 

 私自身は長らく、どんな言葉も「きちんと」「真面目に」受け止めてきた。間違っているなら直さなければならないと思って。少しでも良い人生を送るための糧にしようと思って。

 一方。

 これまで自分に言葉を投げかけてきた人達は、どのくらい真剣に私と向き合ってくれていただろうか。

 そこには時々善意や親切心があったかもしれないが、もしかしたらこちらをコントロールしようとする悪意か、嫌味の込められたものや、果ては特に深い考えのない適当な放言だって一部あったかもしれない。

 

 私は認められないと不安だったけれど、そもそも誰かの存在を「良い」「悪い」と外から判断し、それでいいと許可する権利を持った人間や集団なんてあるのだろうか。その人間を納得させ、彼らが所属している社会に認められなければ、ずっと罪悪感と共に生きなければならないのだろうか。

 そんなはずはない。

 どこを探しても、そう「しなければならない」理由は見つけられない。

 

 ……これまで、積極的に目を向けないようにしてきた事実がある。

 満足のいかない現状を変えたい、と思って懸命に何かをしていると、どこからともなく人がやってきて「お前は充足を知らない」「現状への感謝を優先しろ」と罵ってくる。

 今の自分が持っていないものを欲し、求めるのはそこまで悪いことだろうか?

 ならば、と反対におとなしく現状を受け入れようとしていると、またどこからともなく人がやってきて、今度は「お前は努力が足りない」「行動力に欠ける」と言うのだ。

 欲しいものが思いつかないときに何もしないのは、駄目なのだろうか?

 実のところ、どこにいて何をしていても、常にこれが発生するのが人間の世の中だった。

 

 馬鹿馬鹿しいし、なんて無責任なんだろう。

 私に何の関係もない人達が、口々に「人の話はためになるから聞いておいた方が良い」などと言いながら、私の等身大の在り方に横槍を入れてくる。その言葉をありがたがって聞いて、何かが変わった結果、不利益を被っても誰一人として責任など取りはしない。

 妙な現象ではないだろうか?

 すべてをちゃんと聞かなきゃ、と念じていた他人の言葉には、意外にも、熱心に耳を傾ける値打ちのあるものはそこまで多くなさそうだった。一部を除いて。とりわけ、自分との精神的な距離が遠い人間から、勝手に投げつけられるものは。

 

 純粋に「うるさい」と思った。

 うるさい。本当に。

 

 わざわざ「ちゃんと」生きろと他人に言ってくるような人であれば、相当に素晴らしい人生を送っているのだろう、と様子を伺えば、別にそうでもない。そして、反対に「きちんとした人生というのは、一体どういったものなのでしょうか」と尋ねると、誰も明瞭な答えを返さない。

 こちらには勝手に意見してくるのにもかかわらず。

 あ、これは聞いても聞かなくても多分同じなんだな、と思った。受け止めるべき言葉とそうではない言葉を区別するのは当然で、ある意見を閑却するのも、私の判断で行っていいのだと感じた。

 それが何かや誰かに対して不誠実な態度であるというなら、そうなのだろう。

 しかし、私に「ご意見」を呈してきた人達の果たしてどれくらいが、私に対して本当に誠実だったのかという部分を、むしろ改めて考えてみても良かったのではないだろうか。

 

  • 人生はただ続く

 

 そんな風に思えるようになって良かったのかどうか分からないけれど、この場合は「良い」も「悪い」もあまり関係がなくて、どちらにせよそれが「私の実感である」ということがいちばん重要なのだと理解した。

 何にどのくらい耳を傾けるかは自分で決めていいし、そうするしかない。

 もともと人の話を素直に聞ける性質は私の持った美徳らしいので、苦しめられない程度に活かしていきたいような気がする。

 

 自分が自分の人生を送るのに、誰かの「許可」は必要ないし、わざわざ存在価値など証明しなくても構わないみたいだった。

 良いとか悪いとか、そういう判断基準から離れても、誰かを「納得」させることができなくても、私の人生は終わらずに続いている。

 だから別段どうという話ではなく、単純に、事実として続いている。

 それだけなのであった。

 

 

 

 

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