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彷徨する自由帖

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冬、早朝の格技場の床はとても冷たい

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 寒い時期に朝、目を覚ますと、掛け布団に覆われていない首から上が冷え切っている。

 耳とか、鼻とか、とにかく顔の周辺だけが柔らかな石のように冷たい。これから向かう学校の、美術室に置いてあるゲーテの石膏デスマスクをぼんやり脳裏に浮かべた。思慮深そうで、どこかしょんぼりしているような印象も受ける、あの死に顔を。

 厚いカーテンを引き開けてみても部屋の暗さは変わらない。深夜ではなく、早朝に見る街灯の光は、もう間もなく消えると分かっているものだから殊更に寂しい気もした。

 夜が明けてしまうのは寂しい。昔はあまり、そう考えてはいなかったけれど。

 

 中学生時代、剣道部に所属していた。

 もともと、小学4年生から習い事として地元の剣友会で稽古をしており、進学してからもそちらを継続するつもりではいたが、はじめ部活に所属する気は特になかったと思う。入部したのは、今年は団体戦に出場するのに女子の人数が足りない(注:剣道の団体戦には5人必要なのである)から、ぜひ入ってくれないかと顧問に言われたからだった。

 そんな部活動の「朝練習(通称、あされん)」という慣習のため、週に2日程度は早朝6時過ぎに学校に行っていた。なので、5時半くらいに起きていたことになる。

 その頃は、起床してから家を出るまでにかかる時間は短く、身支度だけでなく朝食をとるのも含めて30分以内で収まったから、とにかくすべてが簡単だった。着る服は制服か指定のジャージと決まっていて、顔に化粧のたぐいは施さず、髪型もそのままか後頭部でひとつに結わくだけ。もちろん当時の自分の特権で、今ではそうはいかない。

 

 練習を行うのは体育館ではなく、学校の敷地内にある格技場(かくぎじょう)。柔道部と共用の施設だった。いつもは半分が木の床、もう半分が移動できる畳を敷くための場所と決められていて、剣道部の活動領域は板の方。そこに辿り着くまでの廊下、古く大きな鏡の向かい、お手洗いのある一角がいつも暗くてかなり怖く、妙な影を見たと囁く生徒も少なくなかった。

 そんな格技場の床上を、特に冬の朝、裸足で歩くのには相当な覚悟が必要になる。

 何より先にまず着替えなくてはならない。冷暖房設備の存在しない更衣室で同級生と震えつつ、下着の上に胴着と袴、という心許ないうすさの練習着に着替えて、重い防具一式はまだ身につけずに準備運動などをする。更衣室を出てから、またあの怖い鏡とお手洗いの前を歩いて道場の入口で一礼をし、やがて板場に足の裏をつけた瞬間にあるのは……実は、痛み。

 意識しないようにするほど、徐々に強まっていくそれ。

 

 冷え切った床を踏むのは、痛い。冷たいよりもむしろ。

 H・C・アンデルセンの「人魚姫」において、6人姉妹の末の姫が地上で1歩ごとに感じたという、「とがった針やするどい刃物の上を踏んで歩くような」痛みを考える。冬季、朝練の開始時に準備運動をしたり、格技場内を走ったりするとき、皮膚から伝わる感覚はかなり強烈だった。氷のように冷たい、という比喩すら生ぬるく思える程度には……。

 足の裏を床にずっとつけていられないから、しばらくは部員全員でおかしな動きをする。定期的に、跳ねる。あるいはその場で行進をする。

 それでも不思議なもので、痛みのピークが過ぎ去ると何かが平坦になるのか、足の裏から感じられるものが徐々に減るのだった。痛覚の方に割かれていた感覚が他の、例えば胴着の袖のところから入ってくる風とか、裏山に近い立地ならではの土埃の匂いとか、そういう要素を捉えるようになる。

 新たに生じる問題は第2の疼痛だった。

 

 しもやけを思わせる、かゆみにも似た痛みの感覚。何十分か動いた後にそれがやってくる。いっそ、ずっと感覚が消えていて欲しかったと歯噛みするぐらいには無視できない強さで。絶えず両脚にまとわりつく、何の寒さも冷たさも防いでくれない、ぺらりとした袴の素材が随分とうらめしかった。

 私たちがこんな思いをしているあいだ、同級生の大半はまだ寝ているか、ちょうど今ようやく布団から這い出てきた頃だろう。窓の外に目をやる。うすい紫と青と黄の光に包まれて、無人の校庭だけが、額縁に入った絵のごとく静かにある。誰もいない。丘の向こうの家々で、毛布にくるまった子どもたちが寝息を立てている。すやすやと……。

 こうやってほんの一瞬でも布団に関係することを考えてしまうのはいけない。あの温かい布の重なりにそっと足を挟み込むだけでいい、それ以外には何もいらない、と思えてしまう。暖房のきいた部屋に帰還できるのならなんだってする、そこでただ、丸くなりたい。

 毛糸の靴下をはきたい。

 毛糸でなくてもいいから、靴下がはきたい。

 何かで足を覆いたい。

 

 とはいえこうして過去を振り返るから色々と思うのであって、当時はただ「剣道部の朝練とはすべからくこういうもの」だと納得していたし、ただ黙々と練習をこなしていた記憶がある。寒い、冷たい、以外の事柄を細かく知覚したり分析したりする余裕はなかったが、淡々と動くことは容易にできた。

 私はもうこの時代の身体には戻れない。長い夜に冷やされた、中学校の格技場の、床の攻撃に耐えられる皮膚には。もちろん戻る必要に迫られる機会が訪れないよう、心から願っている。

 今だって自分の部屋で、くるぶしまでを覆ってくれる、もこもこのルームシューズをしっかりはいているのだ。四肢の末端の冷えは万病の元であり、大いなる敵である。

 閑話休題。

 

 要するに、そういう床の話をしたかっただけ。もう終わろう。

 冬の時期、早朝の部活動の記憶は、格技場の床の圧倒的な冷たさとともにある。

 

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はてなブログ 今週のお題「わたし○○部でした」

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