「始まり」は一体どこで、誰で、そして何だったのかという問い。
最近ボルヘスの「円環の廃墟」を読み返したら、上のブログに去年感想を書いた、中島敦の「木乃伊」を思い出した。
共通点を感じたのは、連綿と続く何かに対峙したとき覚える閉塞感。卵が鶏になり、その鶏が生んだ卵がまた鶏になり卵を産んで、その卵もまた鶏になる、無限の連鎖。最初にあったのが本当に卵なのか、実は明らかではない。どこが始まりであって、どの地点が終わりになるのか。そもそも起源と終焉という概念はそこに存在しうるのだろうか?
分からない。途方もない、自分の持つ時間や意識の感覚を超越するものの前に立って感じる、奇妙な空虚さ……。
怯れずになお仔細に観るならば、前世に喚起した、その前々世の記憶の中に、恐らくは、前々々世の己の同じ姿を見るのではなかろうか。合せ鏡のように、無限に内に畳まれて行く不気味な記憶の連続が、無限に――目くるめくばかり無限に続いているのではないか?
(筑摩書房「中島敦 (ちくま日本文学 12)」(2008) 著:中島敦 p.188)
向かい合わせにした鏡の間に立って、少し視点をずらしたときに見える、あの連続するイメージ。うっすらと灰緑色の覆いをかぶせられた無限回廊を覗き込む、不思議な高揚と恐ろしさ。反復する虚像、視線の先の自分と同じ像が、そっくり自分と同じ像と対峙しているような印象は起源も終焉も曖昧にする。
その感じが、「円環の廃墟」を読んでいる私に「木乃伊」のことを思い出させたのだろう。
共通点も感じたが、ボルヘスの「円環の廃墟」の場合はより、主体の揺らぎというものを感じさせられる気がする。たとえば私が誰かを夢見ると、その誰かが私の認識の世界に存在するに至るが、むしろ私の方もまた、誰かの夢に見られていることによって存在しているのかもしれないのだ。
彼の望みは、ひとりの人間を夢みることだった。つまり、細部まで完全なかたちでそれを夢みて、現実へと押しだすことだった。
(岩波文庫「伝奇集」(1993) J・L・ボルヘス 訳:鼓直 p.72)
ひとりの人物を頭の中で創り上げる。想像し、具現化させる。物語の中で、とある魔術師の男がその望みを叶えようとした。
冒頭で「そこ(男の郷里)ではゼンド語もまだギリシア語に汚されていない……」とあることから、私達からすると、彼が存在するのはなんとなく古代ペルシアの時代に思われる。ゼンド語というのはゾロアスター教の聖典「アヴェスター」(より正確にはその注解書)に用いられた言語で、別名をそのままアヴェスター語とも言ったからだ。
しかし、夢というものは時間を軽々と超越する。彼が自分のいる世界に参入させる(実態を持たせる)人間のモデルにするために、夢の中で己の講義を聞いている生徒からひとりを選ぼうとするのだが、その風景は奇妙だ。
解剖学や宇宙形状学、魔法などを解いている彼を円形の神殿に似た教室で囲んでいる学生たちは、まったく異なる時間軸や世界に生きている風にも思える……。ともかくそこからたったひとりが選ばれ、まずは男の夢の中で受肉した。
夢のなかの心臓は力強く、温かく、秘めやかで、まだ顔も性もはっきりしない影めいた人体の、握りこぶしほどの大きさとザクロ色をしていた。
(岩波文庫「伝奇集」(1993) J・L・ボルヘス 訳:鼓直 p.75)
彼はやがて、生まれ出る準備のできた己の「息子」に対してこう思う。「私が行かなければ、彼は存在しないのだ」と。人間ではなく、べつの人間の夢に見られた存在で、しょせんは幻であると息子自身が気が付いてしまえば、きっとこの上ない屈辱と困惑を感じるだろうとも考える。
しかし、それは男自身に対しても言えることだったのだ。
最後に円環の廃墟で炎に包まれながら(ちなみに、前述したゾロアスター教は「火を崇拝する」拝火教である)男は悟る。自分は息子を夢にみて、彼を創造したが、その自分も誰かに夢みられることで創造された存在であるのだと思い至る。
安らぎと屈辱と恐怖を感じながら彼は、おのれもまた幻にすぎないと、他者がおのれを夢みているのだと悟った。
(岩波文庫「伝奇集」(1993) J・L・ボルヘス 訳:鼓直 p.80)
魔術師の男を夢に見ていたのは誰だったのだろう。その人物も(「人」であるかどうかすらも判然としないが)また、おそらく誰かの頭の中で初めに作られ、受肉し、そうして何かを夢に見ていたのかもしれない。
こうなるともう、存在の主体がどこにあるのかは完全に闇の中だ。夢想し、夢想される関係の輪が途切れずに連なっているのだとしたら、誰が最初に生まれ、何を夢見たのか。その最初の誰かだけは、夢の中から生まれ出たものではない何かだったのだろうか。
ブログのはじめで呈した疑問が再び頭をもたげる。
卵が鶏になり、その鶏が生んだ卵がまた鶏になり卵を産んで、その卵もまた鶏になる、無限の連鎖。最初にあったのが本当に卵なのか、実は明らかではない。どこが始まりであって、どの地点が終わりになるのか。そもそも起源と終焉という概念はそこに存在しうるのだろうか?
火に包まれた廃墟が円環なら、この問いも円環となり、ひたすらに廻り続ける。
主体の「始まり」は一体どこで、誰で、そして何だったのか……。
そもそも、存在の主体などと呼べるようなものが本当にあるのかどうかも、私達には知りようがない。
上のようなことを考えながらちくま文庫の中島敦を読んでいたところ、その解説で池澤夏樹氏が、中島敦作品(触れられていたのは「木乃伊」ではなくて「文字禍」だが)とボルヘスの作品の類似点について言及していたのでちょっと驚いた。
やはりそういう印象を抱く人は自分以外にもいるらしい。