前回「卵」の続き
風邪をひき始めた予感がする。普通の症状とは異なる頭痛がしていて、けれど発熱はない。
寝入りばなに私は特定の夢のことを思い出す。ビルの隅に産みつけられていた鳩の卵を見て思い出した、夢。それは、自分がかなり胴の太い大きな大きな蛇になって、ゆっくり鳥の卵を飲みこむというものだった。
世界には卵から生まれてくるものが無数にある中で、どうしてそれが鳥だと限定されているのかは分からない。けれど、鳥でなくてはならなかった。
夢のその卵には温かさがない。殻の内側にやがて雛となる材料を蓄えているとは思えないくらいに、重く、冷たい。土や石でできているみたいに。蛇は、巣の中にふたつ並んでいるうちのひとつに長い舌を伸ばし、口と喉を開いて徐々に腹へと収めていく。
身体の熱を奪う、ひんやりした卵を腹に抱える心地よさ。
やがて殻も中身も胃液に溶けて、自分の一部になる。その例えようもない明快な満足感。
けれど私は知っていた。このように食べられなかった卵がふたつとも孵って、きちんと2羽の鳩の雛となり、小枝でできた巣の中で鳴き声を上げていたことを。また同じビルを訪れて実際に見たから、知っている。
雛は孵った直後、柔らかそうな毛に覆われていて魅力的であったが、やがてあまり美しくなくなってきた。古い毛が抜けて新しい毛に生え変わろうとしているのだろうが、その過渡期の様相は醜く、皮膚の上にまばらな束となってところどころ羽根が突き出ているさまは目を背けたくなる姿だった。
この落胆を正確に言い表す言葉はなく、それから私は近くを通りかかっても巣の方に視線をやらないようにして、先日そこはもうもぬけの殻になっていた。鳩はある程度まで大きくなって巣立ったのだろう、どちらも。
ときどきそれを思い出していたら、訪れたレストランで鳩の肉が出た。
フランス料理レストランの、8品のランチコースで提供されるはじめの一皿、カナッペ。それは「ヴァリエ(Varier)」だった。エイヒレと、鹿肉と、鳩の肉が並べられている。いずれもお行儀よく、円の内側に収まっている。
料理の説明を聞いているあいだ、私の意識と視線は調理された鳩の脚に釘付けになっていた。これだ、と思った。大蛇に変化できなかった私がうっかり食べ損ねた、あの、鳩の卵。あの中に入っていた雛が、こうして形を変えて目の前にある。なんという幸運。なんという至福。
もう醜い、生えかけの羽根に覆われていないその姿。
丁寧に味付けのされた柔らかな肉に歯を立て、噛み千切った部分をゆっくりと賞味し飲みこむのは、すばらしく気分を良くする行為だった。
ところで、ヘッセの『デミアン』は、最終章にだけ本当にがっかりした。他にもそう感じている人は少なくないはずだ。序盤からとても面白い本だったけれど、あの題材を扱う難しさと、作家と彼が生きていた時代との関係を思えば、あれが到達できる限界なのだと考えていた。
ヘッセは第一次世界大戦の勃発時に実際に生きており、それが彼自身にとってどんなものであったかと、いかにして終結を迎えたのかも知っている。何か特定の物事の渦中にいる人物は、どう足掻いてもそこから距離を取ることはできないのだ。
シンクレールとデミアンが闇の中で邂逅したこと、ただ一瞬の触れ合いのみを読者の胸に刻んでおこうと思う。卵の殻はしっかりと破られた。蛇に飲み込まれる前に。
ウロボロスは卵ではなく、自らの尾をくわえている。