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彷徨する自由帖

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「自己肯定感至上主義」には馴染めない(なぜ、自分をわざわざ肯定しなければ駄目なのだろう?)

 

 

 

 

 大衆的、かつ聞こえがあまり悪くなく、ゆえに世間で「なんとなく」使われている言葉の中で苦手なものは結構沢山ある。

「自己肯定感」とか「社会人」とか「人材の市場価値」とか。

 それらを見聞きして、心から納得できる側の人は別にこのブログを読む必要はないし、何らかの批判を展開しようというのでもない。世界には、特定の言葉を耳にするたびにどこか納得できないと感じる者も存在しており、私もどちらかというとそうであるために、疑問の記録を残しておきたいだけだ。

 

 疑問。

 例えば「社会人」って具体的にどんな人を指しているのだか、おそらく改めて尋ねれば意見は大きく割れるはず。

 それ、どういった意味で使われているんですか、と各々の定義を聞いてみたいところだが、もちろん実際に公の場で実行することはない。そういうことをいちいち口にしていると、表立って自由に動きにくくなるのが私にもすでに分かっている。世間と呼ばれる領域では、余計な言葉を口にするのがあまり推奨されていないらしいので。

 苦手な言葉の数々は世に溢れているから、見ないようにしていたところで嫌でも視界に入ってくるのが難儀だった。右側から視線を外せば、左側に。上方を見るのをやめれば、下方に。思慮の堤防を越えてずいぶんと氾濫しているようだ。

 会話の中、記事の中、広告の中……そのうちいくつが、意味や用法の根本を、きちんと考えて使われている言葉なのだろう。

 人間の言葉は主に人間によって使われ、ときどきは「なんとなく」発される。そういうものであり、その事実自体には反論のしようがない。

 では私にとって何が問題なのかといえば、どうにも気にかかる言葉の数自体が非常に多いことと、使われる頻度が高く、かなりの力を持ってしまっている現象だと考えるのが適当かもしれない。圧迫感があるのだ。

 

 とりわけ「自己肯定感」は厄介だった。どこに行っても、この言葉にぶち当たる。

 その概念、あるいは言葉には、前から馴染めないしよく分からないと感じており(でも人口に膾炙しているわけで、多分、私の方の感覚が著しくずれているのだと考えざるを得ない)最近では自分にとって本当に「どうでもいいもの」なのだとつくづく思うようになった。

 有っても無くてもどちらでも変わらないというべきか。

 この自己肯定感が高いとか、低いとか、低いから問題だとか、いや高すぎるのもいかがなものなのかとか、またその手の枠組みに人が押し込められ始めたのかと思うとうんざりする。

 曖昧な基準を設けて自分や他人の内情を勝手に判断する試みが、また、始まったのだ。

 

「あなたの自己肯定感、低くないですか?」

「あなたの人生がうまくいかないのは自己肯定感の欠如に起因する!」

「自己肯定感を取り戻して毎日を豊かにしよう」

 

 本当に? と思いを巡らす。言葉と考えが馬に引かれてぐるぐる脳内を巡回する。

 本当に、その感覚をどうにかすることで、たちどころに問題が解決するものなのだろうか。自己肯定感の有無とは別の場所に、悩みや苦しみの原因が存在する場合もあるのではないだろうか。

 結局、それは実際には存在しない正解と間違いを作ろうとする試みの一端だと個人的に思う。自分の抱えている問題が少なからずあるにしろ、それをことごとく、得体の知れない「自己肯定感」とかいうものの責任だと勝手に決められてはたまらない。

 そんなものはどうでもいい……。

 私の問題や課題はそれぞれにその都度向き合うものであって、自分を肯定できようとできなかろうと、根源的な部分が簡単に揺らぐというのは(良い意味でも悪い意味でも)考えにくいことだった。

 

 自分をわざわざ肯定しなければいけないだろうか。

 何に赴く自己に対しても、常に、肯定的に考えなければ駄目なのだろうか。

 自分を肯定できずに苦しみを感じるのは、悪なのだろうか。

 

「これでいい」と確信できる瞬間と、そうではない時。生活の中でどちらも心情として存在している状態は別に通常で。迷い自体が良くないとか、後ろ向きだとか言われても、私にとっての私はそれで普通なのだとしか返しようがない。仮に自己を肯定的に捉えられず悩む時があっても、それの何が悪いのか、全然分からない。

 世間的に支持される考えや言葉には支持されるだけの理由があるはず。

 だから一応考えておいた方が己のためになりそうだと思いつつ、じっくり突き詰めて考えたが、とりあえず自分とは合わないと判明した。自己肯定感至上主義には馴染めない。

 そもそも常に前向きであれ、みたいな、誰かや何かにとって都合の良さそうな主張が苦手というのは確実にある。前だけを向いて、真横や背後で起こっている事柄に無頓着な人間は、さぞかし御しやすいことだろう。生憎そうなる予定はない。

 

 自己肯定感への疑問の記録ついでに、他にも世間でなんとなく使われている語句のうち、苦手なものに対して感じる事柄を書き残しておく。

 記事の冒頭で挙げた「人材の市場価値」も実に好きではない言葉だ。

 資格取得の広告などで「自分の市場価値を高める」みたいなことが書いてあると、正気か? と思ってしまう。人間に対してその言葉を使いたくないのだが。いわゆる自己アピールとか面接必勝法とか、要するに自分自身を売り物にする能力を養う過程としての教育、その側面がはっきり強調される瞬間。特に学校入試や就職の面接に代表されるもの。

「私を採用すれば、あなたの側にこのような利益がもたらされます。こういった価値を提供できます。だから、せひ選んでください」と自己をプレゼンテーションする必要に迫られる、人間の世界。

 

 これは、私的な生活の場を離れたより広い意味での社会で生まれる概念だと思っていたが、ごく私的なはずの領域でも、結局はそうなるのだと感じる。

 自分以外の人間がひとりでも存在する世界(これも社会だ)では、その人間をどう扱うのか選ばされる。無視するのか、遠ざけるのか、近付くのか、より親しくするのか。誰かの側にいると決めるのは、その誰かを「選ぶ」ということで、他を「選ばない」ということ。

 面倒だった。

 実際にヒトがそういう性質の生き物である以上、生きているかぎり、この事実と向き合い続ける必要が出てくる。それは仕方がない。同時に、ひどく面倒だと思った。

 重ねて言うがこれは素直な私の感想、その記録であって、そこから殊更に何かを主張しようというわけでは別にない。そのうちまた少なからず、視点や意見が変わる日が来るだろう。