明治・大正の頃から日本で食べられるようになった料理といえば、牛鍋、ライスカレー(カレーライスと呼ばれるのはもう少し後の時代)、ライスオムレツ(オムライス)などがまずなんとなく思い浮かぶ。それから「大正三大洋食」に名を連ねているコロッケ、ビフテキ、豚カツも代表例として挙げられるだろうか。
特に日本における豚カツは、薄い肉を使った洋風のカツレツ(牛や羊を使用)がフランスから流入して以降、紆余曲折を経て変化してきたものとされ、それを丼によそったご飯にのせて提供する「カツ丼」の起源には諸説がある。まあ沢山の説が。
時代に関しては多くが大正年間とされているが、地域に至っては本州の各地に散らばっており、捉えどころがない。ともかく大体その頃に、各飲食店で一般客向けのカツ丼提供が始まったらしい、くらいに認識しておくのがいいかもしれない。
明治30年代後半の甲府説、も存在する。
さて、福島県は会津。
先日に初訪問を果たした会津若松では、ソースカツ丼が地元の名物として紹介されていた。ここでは昭和5(1930)年に「若松食堂」が提供を開始したのがその起こりとされ、15年後の昭和20(1945)年には続いて「白孔雀」食堂が、丼の直径よりも大きなカツを白飯にのせる特徴的な盛り方で名前を知られるようになる。
歴史家の石田明夫氏が以下のページに記載していた。
行くまで上の事実を全く知らなかったため、天鏡閣を出て、猪苗代から乗った磐越西線を会津若松駅で降りてから、食堂に入ってみた。
改札を出てすぐの便利な位置に「会津山塩食堂」が暖簾を掲げている。
注文したのは名物ソースカツ丼と、会津地鶏のゆで卵ひとつ。
特徴的なのは、衣の全体を覆ってひたひたにしている、潤沢なソースの存在。まるでソースがカツを包んでいるみたいだった。そしてこの、器のフチから少しはみ出すようにカツを配置しているのは、前述した会津ソースカツ丼の歴史にあった「デカ盛り」の存在を意識しているのだろうか。
白飯とカツの間に、座布団よろしく千切りキャベツが敷かれている。カツ丼におけるキャベツの存在はどこか、カレーにとっての福神漬けと似ている部分がないだろうか。人によって必須であったり不要であったりし、一緒に食べるかどうかは個々の判断に任されている。ちなみに会津では、この千切りキャベツこそが地元のソースカツ丼の特徴らしかった。
肝心のソースには塩気と甘さがあり、さらに深い部分で色々なものが溶け込んでいるのを感じる。とろみがあって味も濃い。ケチャップや酒、みりん、あるいは果物が配合されているとも耳にしたが、実際に材料の詳細を知りたくなる。もちろん店舗によって使われている材料は異なるのだろうが……。
柔らかい豚肉が、衣の布団をかぶってソースの夢に微睡んでいた。濃い味のおかげで食欲が増進され、もっともっと白いご飯を食べたくなるような気がした。
そんな会津名物ソースカツ丼を再現したお菓子「会津ソースかつ丼風味かつ」が、土産物店の多くで販売されている。外箱のデザインからはどういうものか全く予想できなかったけれど、旅行の記念に買ってしまった。
箱を開封して現れるのは個包装に守られた「カツ」たちで、ひとつの袋にひと切れが入っており、それぞれが親指1本分程度のサイズ。あれ、あれ、知ってるあれだ……! と脳内を探って思い出したのが、駄菓子屋さんで売っているカツだった。幼少期に食べたことがあるものに似ていた。
このサイズなので、口に入れると一瞬でなくなる。幻のように。
なんだか寂しい気もしたが、食べ過ぎを防ぐのにはこれくらいの大きさで小分けにしてくれた方が効果的なのかもしれない。実物のようなソースの潤いや分厚い食感こそないものの、その味は確かにカツであった。