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彷徨する自由帖

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「道ありき」を片手に作家ゆかりの地を訪ねて - 見本林の文学館と塩狩峠記念館(三浦綾子旧宅)|北海道一人旅・塩狩&旭川編

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 4年前……2018年の8月末、札幌。

 豊平館を訪れたその日は頭上を仰げば曇天、たまに晴れ間が見えるが当時の外気温は低く、17℃しかなかったのを今でもはっきり覚えている。とても寒かった。いかに北海道といえど真夏の暑さからは逃れられまい、と上着を持たず、半袖で中島公園を出歩いていたのが完全な油断のあらわれ。そのままではきっと、風邪をひいてしまうと危惧した。

 寒い、と両腕をさすりながら、どこでもいいから暖を取りたくて、逃げるように駆け込んだ建物が奇しくも、北海道立文学館。

 

 そこの常設展で、初めて三浦綾子とその小説作品に出会った。

 彼女は北海道出身の代表的な作家。常設展示では作品の特徴、また著者の人となりが簡単に紹介され、著しく興味を惹かれた私はすぐに「氷点」「続氷点」を購入し、読んだ。陳腐な表現で申し訳ないが、その選択は大正解だった。次に「塩狩峠」、そして「道ありき」から始まる自伝の3部作を通読し、実感する。

 この人のことが、単純にとても好きだと思った。

 

わたしには、生きる目標というものが見つからなかったのである。

何のためにこの自分が生きなければならないか、何を目当てに生きて行かなければならないか、それがわからなければどうしても生きて行けない人間と、そんなこととは一切関わりなく生きて行ける人間があるように思う。
わたしはその前者であった。

 

(新潮文庫「道ありき」(1980) 三浦綾子 p.29)

 

 今年、2022年は作家の生誕100周年。

 だから、会いに行こうと決めた。記念文学館のある出身地の旭川へ。そして、「氷点」が賞を受賞する以前、雑貨屋を営んでいた頃の旧宅が復元されている、和寒町の塩狩へと。

 会う……といっても作家は故人。すでにこの世にはいない人。けれど彼女によって紡がれ、記された言葉は、紙上や映像上に残っている。私は時代を超えてそれを辿り、いち読者として、身勝手に何かを感じ、考える。そういうことを指して「会う」と表現させてもらう。

 

 現地での移動中はずっと、文庫版の「道ありき」を手放さずにいた。

 

 

目次:

 

三浦綾子記念文学館  旭川市

 

 三浦綾子記念文学館は旭川、外国樹種見本林のあるところに建っていた。JR旭川駅南口から歩いて10分くらいで、途中で忠別川にかかる「氷点橋」を通り、その通りを突き当りまで歩き続けると到着する。美瑛川の手前にあって、地図で上から見るとまるで訪問者を受け止めるような形になっているのが面白い。

 この見本林は、三浦綾子が夫である光世氏との結婚2年目、6月に、光世氏の上司に薦められて訪れた場所。後に「氷点」の舞台にも採用された。明治時代、日本の寒冷地で外国種の木々がどう育つのか調査するために設けられた国有林であり、一般人の立ち入りも自由にできるため、市民の憩いの場になっている。

 私も今回の訪問時、そこにしばらくいて、作者が「この土の器をも」で述べた見本林の印象が真実であったのだと確かめていた。

 木漏れ日が美しく、しかし、どこか無気味。響いていたのは2匹のカラスの鳴き声だった。片方は少し高く、もう片方は少し低い声を出し、会話をするように交互に鳴いている。周囲があまりに静かなので聞き分けられるが、もしも往来の激しい市街地であったら、きっと気にも留めなかっただろう。

 

 

 歩道を1周して戻ってくるとまた文学館の建物が見える。木々の隙間から。ここでは三浦綾子の生涯……ひとりの人間として、また作家として歩んだ彼女の軌跡を、実際の写真や私物、原稿などを交えた展示物を通して窺い知ることができる。

 三浦綾子(旧姓:堀田)は、一体どのような人だったのか。

 その著書を読んで、またそこに記された、周囲の人々から見た印象を参考にして、頭に浮かべるのは魅力的な人物像だった。考え深く、しかし静的というよりはかなり激しいものを瞳や胸に抱いている、気の強い女性。はっきりとした物言いに、ややもすれば誤解を招きそうだと思うのだが、本人にもきちんとその自覚がある。

 それでも多くを惹きつけるのは、彼女の発する言葉は他人に対してだけでなく、彼女自身にも常に向けられていたからではなかっただろうか。

 

「たいていの人は、人と付き合う時に、なるべく長所を見せようとするものだけれど、綾ちゃんはその反対ですね。こんな自分でもよかったら、つき合ってみたらどう? という態度ですからね。損なタチですよ」

 

(新潮文庫「道ありき」(1980) 三浦綾子 p.64)

 

 私はこう考えた。そして、あなたはどう考えるのか。

 私の考えは、きちんと的を射たものであるか、否か。

 常にそう尋ね、尋ねられ、槍の一閃のように透徹した意識は、安易なごまかしや無意味な慰めを突き崩す。だからこそ、と私は見本林の林の中で、ほとんど枝葉に覆われた頭上の空を見上げて思った。それだけ厳しいまなざしをまず自分自身の上に注いでいたからこそ、三浦綾子は苦悩したし、光を、信じられる何かを求め続けていたのだと。

 彼女が感じた初めの大きな虚無は、第二次世界大戦の終結に端を発するものだった。

 状況が変わればあまりにもあっさりと転換する価値観。特にかつての軍国主義的教育に、教師として自分が携わっていた事実に、迷いと罪悪感をおぼえる。何が正しく何が正しくないのかに確信を持てない、無責任な姿勢で教壇に立つなど不可能だと悟った三浦綾子氏は、24歳の頃に教職を辞した。

 その心境は空虚で、酷く荒れてもいた。

 

第一に、すべてがむなしいのであるから、生きることに情熱はさらさら感じない。それどころか、何もかも馬鹿らしくなってしまうのだ。すべての存在が、否定的に思われてくる。自分の存在すら、肯定できないのだ。

 

(新潮文庫「道ありき」(1980) 三浦綾子 p.30)

 

 いっそ結婚でもしてしまおう……と、どこか不誠実なものを抱え、同時期に2人の人間と婚約をするほど投げやりになっていた彼女は、結納の当日に体調不良で、そして後に肺結核にも倒れる。本人はこれを示唆的で、何かに罰せられているようだとも感じたそうだ。やがて脊椎カリエスも併発し、長い闘病生活は続いた。

 人生の転機となったのは昭和23年。

 三浦綾子の病床を見舞った人物、幼馴染の前川正は、キリスト教徒だった。

 自暴自棄に生き、多くの人間と適当につき合い、療養中にもかかわらず酒瓶を手にするような姿を目の当たりにした彼は、彼女をたしなめる。それに対する返答は、以下のようなにべもないものだった。

 

(あなたは、わたしの恋人でも何でもないわ。何の関係もないのに、少しうるさいわね)
 そう思いながら、わたしは言った。
「正さん。だからわたし、クリスチャンって大きらいなのよ。何よ君子ぶって……。正さんにお説教される筋合はないわ」

 

(新潮文庫「道ありき」(1980) 三浦綾子 p.59)

 

 しかし、かつての婚約者、西中一郎との別れと、彼に止められた自殺まがいの夜の入水を経て、彼女は少しずつ変わっていく。前川正の根気よい説得と、真に他人を思う彼の清澄な心の在り方に触れて。「だまされたと思ってこの人の進む方向について行ってみようか」と。

 キリスト教への懐疑心はいまだ抱きながらも、虚無に陥って終わるのではなく、そのどん底からでも再び何かを求めて生きたいと明確に思うようになった。一度は極限まで追い詰められたからこそ、見える光があるはず……。彼女は酒や煙草を断ち、前川氏の勧めで聖書を読み、短歌も作ることを始めた。

 どこまでも無気力な状態から、何かを受容する精神を持ち、さらに自分から作品を生み出す創作活動にも手を伸ばせるように。そこまで彼女を導いた前川氏の存在の大きさを思うとき、彼の死もまた、とうてい測り知れない悲しみをもたらしたに違いないと思って私は立ち止まった。

 

 そう。前川正は胸郭成形の手術のあと、しばらくして亡くなってしまったのだ。

 

 文学館の2階に展示してあった書簡。前川正氏は三浦綾子のことを「綾ちゃん」と呼んでいて、手紙の文章にもそれがあらわれている。他人が他人に宛てた手紙を読んで涙するなんて、と自分でも思ったが、私は耐えられなくてそこで泣いた。三浦綾子氏の著作を通じて彼の人格や行いの一端を知った今、作者に対して呼びかける愛称に、そこに込められた万感に、心を動かされないはずがなかった。

「道ありき」にも生前に綴られた書簡の一部が掲載されている。

 

「綾ちゃん、綾ちゃんは私が死んでも、生きることを止めることも、消極的になることもないと確かに約束して下さいましたよ。
 万一、この約束に対し不誠実であれば、私の綾ちゃんは私の見込み違いだったわけです。そんな綾ちゃんではありませんね!」

 

(新潮文庫「道ありき」(1980) 三浦綾子 p.274-275)

 

 本物だと思った。

 必死に探してもまず見つけられないような、滅多にない、本物の人間の思いだと。

 

 前川正氏の没後、不思議な出来事が起こる。彼にそっくりで同じキリスト教徒の、三浦光世という人物が現れたのだった。知人のはからいで彼女を見舞った光世氏こそ、後に生涯の伴侶となり、三浦綾子が作家として小説を書き続けるにあたっても、なくてはならない存在であり続けた人物。

 最初はあまりにも前川氏に似ているので、三浦綾子は彼が人ではなく、悲しむ己に神が遣わした、何か別のものではないかと考えたくらいだとか。彼らはささやかな交流を続け、2人とも互いを大切に思うようになった。

 綾子は当然、悩む。

 

わたしの魂は飢えている。知的なもの、高度の情的なものに飢えている。

 

(新潮文庫「道ありき」(1980) 三浦綾子 p.317)

 

 自分は、もういない前川正の面影を、三浦光世の姿に投影しているだけではないのか?

 そう葛藤していた三浦綾子だったが、他ならぬ前川氏がもたらした信仰というものが両者を結び付けたことに意味を見出し、幸いにも彼女の病状が快方に向かってから、彼らは結婚式を挙げる。昭和24年、5月のことだった。

 

 記念文学館の分館には、彼らの家にあった三浦綾子の書斎が再現されており、手を痛めてから「口述筆記」で作品の執筆に取り組んでいた時代の雰囲気の一端に触れられる。

 旧宅から書斎の一部屋だけを部分的に移築したものなのに、本当の家がそこにあるようにも感じられ、足が畳の上を擦る音がどこからか聞こえてきそうだった。

 

 

 三浦綾子と三浦光世の2人がかつて暮らした家は、旭川市内から和寒町に移築復元され、記念館として公開されていた。

 私はそこにも行ってみた。

 

 

 

 

塩狩峠記念館(三浦綾子旧宅)へ

 

 今回の旅の拠点としていたのは、上の記念文学館がある旭川市内。

 そこから記念館のある塩狩へ行くのに利用できる公共交通機関は、鉄道かバスになる。私は往路でバス、復路では鉄道を利用した。どちらも1日の運行本数は多くない。事前に時刻表を調べておくのが必須なのと、補助として、乗換案内アプリが手元にあればとても助かる。

 旭川駅前のバス停から「名寄」行きの便に飛び乗って、整理券を取り、適当な席に座る。窓からの景色はみるみるうちに様相を変えていった。都市らしい姿から、ここら一帯が上川盆地と称される所以の地形が明らかになり……どこまでも直線状に伸びる道路の脇には、広がる水田と、家々が点在し、そして遠くの山々しか視界に入らなくなっていく。

 途中、比布(ぴっぷ)を通った。そうして蘭留(らんる)も通過した。私の中でピップといえばディケンズ「大いなる遺産」の登場人物か、ピップエレキバンの商品名だが、どちらも北海道のこの町には関係がない。閑話休題。

 食い入るように外を眺めているうちに、ぱらぱらと雨が降ったり止んだり。やがて塩狩の停留所に立った私は、雲の影響で輪郭線を曖昧にした、遠景の山をしばらく眺めていた。白が緑に映えているのか、反対なのか、あるいはどちらもか。

 

 

 ゆるやかな坂道を上りきると、いた。特徴的な、大きな亀の甲羅を連想させる形の屋根を冠した、小さな家が建っていた。これが現在の塩狩峠記念館であり、かつて三浦綾子と三浦光世が暮らした、旧宅の復元である。

 この塩狩は明治42年に、国鉄職員であり、キリスト教徒でもあった長野政雄という人物が殉職した地。列車の逆走事故による惨劇を、身を挺して防いだと伝えられている場所だった。後に三浦綾子が彼と彼の人生に着想を得て、小説「塩狩峠」を発表した由縁から、記念館も塩狩に建てられた。

 館内の撮影はできない。建物の外壁、窓ガラス以外の部分には琺瑯風看板がいくつもかかっていて、住居兼雑貨屋の「三浦商店」として機能していた家の往時の姿が偲ばれた。こぢんまりとして、ささやかな幸せに満ちていた空間。

 はじめ光世氏は妻が雑貨店を開業するのに反対していて、その点において彼らが相互に納得できる状態を探すのは難しいことだった。他の生活上の懸念も決してゼロではなく、全てがうまく行っていた生活ではなかったと「この土の器をも」でも述べられている。けれど、昼間に部屋で本を読むだけの生活ではなく、どこかで誰かの役に立ちたいと願う三浦綾子の意志は固かった。

 

そんな閉鎖的な生活からは、何も生れるわけはない。二人は結婚する時、少しでも人様の役に立ちたいと願っていたはずだった。
この田んぼの真ん中に店をひらいても、成り立つかどうか、それはわからない。だが、店をすることによって、少なくとも近所の人と馴染みにはなれる。そして、その中の一人にでも、キリスト教の伝道をすることができるなら、というのがわたしの願いだった。

 

(新潮文庫「この土の器をも」(1980) 三浦綾子 p.159)

 

 昭和38年、元旦の頃。

 自宅の近所に越してきていた両親に会いに行った綾子は、賞金一千万円で新聞小説を募集する懸賞の記事を、末の弟から教えられた母によって見せられる。既存の作家であっても応募できる賞で、過去に何度か執筆関係の依頼を受けてはきたものの、素人の自分には縁がない、と放念しようとしたが、やはり気になる。

 彼女は想像した。もしも長編小説を書くとしたら、どのような筋書きにするだろう。何よりも、それを通して最も描きたいことはなんだろう。

 思いを巡らせているうちにいつの間にか略筋ができ、綾子は夫の光世氏にも相談して、実際に執筆をはじめた。舞台は旭川の外国樹種見本林。昼間は雑貨屋の仕事に専念しながら夜にペンを取る生活で、徐々に難しくなっていったし、使命感がなければ書き通せなかっただろう……と彼女は語る。

 心の根幹にあったものは、社会がこれほどまでに人を幸福になりにくくしていることと、その問題の核にある罪の問題を、キリスト教徒として訴えなければならないと信じる思い。

 

 締切日の10日前に熱で倒れるなど、困難を経験しながらも応募にこぎつけた原稿用紙千枚の小説は、最終的に栄えある一位入選の座を手にした。

 それが「氷点」だった。

 私が4年前に札幌で出会い、一気に読んで以来、すっかり生涯の友人のようになった小説。

 

ただひたすら、石にかじりついてもひねくれまい、母のような女になるまいと思って、生きてきた。が、それは常に、自分を母よりも正しいとすることであった。相手より自分が正しいとする時、果して人間はあたたかな思いやりを持てるものだろうか。
自分を正しいと思うことによって、いつしか人を見下げる冷たさが、心の中に育ってきたのではないだろうか。

 

(角川文庫「続氷点」(2018) 三浦綾子 p.375)

 

「氷点」と「続氷点」で扱われている原罪というものの概念は、文学館でも記念館でも非常にわかりやすく解説されている。

 悪事に手を染めることの罪、それ自体を指すのではなく、自らの行いを顧みずに「私はこれまで品行方正に生きていて、悪いことなどしていない」「だから他の悪い人間とは違い、完全に潔白であるはずだ」と思うこと。これが、原罪の意識に繋がる。

 自分の罪深さから目を背けずにいること、その本質が何なのかを「氷点」は問う。

 

 ……考えていて、ふと思った。私は小説が好きだ。とりわけ、物語が好き。

 同時に、物語とはまた違った部分で小説に心を寄せる理由があるとすれば、それは何か。色々考えられるけれど、文章というもの自体への愛着もさることながら、ある主題に対して答えよりも「問い」を提示する機能に魅力を感じているのではないか。

 ある意見を強く主張する小説にも、面白いものはある。しかし根本的な性質として、紙上に記されて世に発表された小説は、否応なしに読者としての大衆へ問いを投げかけるものだ。内容が何であれ。

 読んだ人間の胸には疑問が生まれたり、それに対して自分なりの答えを出したり、時には出さないまま、長い時間を過ごしたりする……。

 だから、小説が好き。

 

 

 窓の外を見ると、雨が降ってきたようだった。

 記念館2階で流れている朗読テープの音声を背に、建物から出て階段を下り、傘を片手に長野政雄顕彰碑のあるところへ向かう。少し前でも述べた、小説「塩狩峠」のモデルとなった人物を追悼する石碑。

「塩狩峠」を執筆していた頃から、三浦綾子は手の痛みを感じるようになった。そこで、夫である光世氏の手を文字通りに借りる「口述筆記」の方法を採用し、彼女が口から発した言葉を彼が聞いて、書き留めるスタイルでその後のすべての作品は執筆された。

 塩狩峠記念館では録音音声を使い、実際に口述筆記がどんなものなのか体験することができる。

 本当に難しいのでぜひ試してみてほしい。相当に馬の合った人間とでないと、長時間こんなことはやっていられない、と実感できるはず。

 

 

 寂寥とした無人のプラットフォームに、宗谷本線の鉄道車両がたった1両でやってきた。

 稚内からはるばるレールの上を駆け、これから旭川方面へ向かうもの。長野氏が殉職した当時は急勾配で起伏が大きく、カーブもある難所だった塩狩峠の周辺(明治時代には駅がなかった)は現在、誰もが昔より安心して通過できる地点になった。

 さっきよりも雨足が強くなる。冷たい雨粒を避けるように、車内へ移るとほっとする。

 あ、これだな、と息を吐いた。

 私は生活の中で、たとえ屋根の下にいても不意の雨に打たれているように思うとき、三浦綾子作品を手に取る。本は全身が濡れるのを防いでくれるわけではないが、自分がその時、求めているのかどうかも分からなかった何かを差し出してくれる場合があって、それがたまに安心に似ている。実際は、まったく違うものなのだけれど。

 

 そういう本を持ち歩く気持ちは、怪しい天候を前にして、折り畳める小さな傘を鞄に忍ばせる際の意識と共通しているものがあった。

 今度は流氷を見に行きたい。

「続氷点」の最終章で陽子が、燃える流氷を眺めて、天から滴る血を連想した場面を頭に浮かべながら、海辺に立ちたかった。

 

この世は虚しさに満ちている。だから、この世に対して虚無を感ずるのはむしろ当然である。虚しいものを虚しいと感ずることに、恐れることはない。

恐るべきは、虚しいものに喜びや生甲斐を感じて、そこに浸ることである。

 

(新潮文庫「光あるうちに」(1982) 三浦綾子 p.105)

 

 私は著者のようにも、その作品の登場人物のようにも、もちろんなることができない。

 だから、と何度でも思う。だからこそ、小説が好き。

 

 

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